キャサリン・ウィロビー/ホルバイン作
キャサリン・ウィロビー
Catherine Willoughby
(1519~1580)
ウィロビー家系図
「通して下さい!重病のキャサリン様のお世話をさせて下さい!」
1536年元旦、一人の女が前王妃キャサリン・オブ・アラゴンの監禁されているキムボルトン城に入ろうとして衛兵に阻止されていた。
女の名をマリア・デ・サリナス。
前王妃キャサリンがスペインから英国へ嫁いできた時に、付き添ってきた侍女の一人だった。
元女主人が危篤と聞いて、危険もかえりみず駆けつけたのだった。マリアは衛兵の腕をふりはらって落馬した。
ふたたび立ち上がったマリアは、ドレスは裂け、顔は泥にまみれのまま怪我で片足を引きずりながら、キャサリンとの面会を求めた。責任者は哀れに思い、こっそり中に入れた。
キャサリンは元王妃とは思えない質素なベッドの上で、人形のように動かなかった。
マリアは泣きながらすがりついた。
「キャサリン様、王妃様、私です、あなたにお仕えしていたマリア・デ・サリナスです。」
「マリア・・・来てくれた・・のね」
キャサリンは瞼を開き、うっすら微笑んだ。
「ご家族は・・・・お元気?」
「私は娘を王妃様の名にちなんで【キャサリン】と名付けました。覚えておいでですか?」
「ええ・・・私が名付け親ですもの・・・懐かしい・・・・。」
マリアは声もなくやせ衰えた元の主人の体を抱きしめた。
6日後、キャサリンはマリアの腕の中で息絶えた。
大スペイン王国の第4王女として生まれながら、キャサリン・オブ・アラゴンの一生は苦闘の連続だった。
雄々しく不幸に立ち向かい、愛と信念を貫いた彼女を、マリアは心から慕っていた。
マリアは22年前、英国貴族ウィリアム・ウィロビーと結婚していた。夫妻は生まれた娘に「キャサリン」と名付けた。
熱心なカトリック信者であったマリアは、信心深かった女主人の魂にむかって祈った。
(どうか娘を・・・あなたの名をいただいたキャサリンを、天国からお守り下さいませ。
あなたの強さと賢さを、娘に分け与えて下さいませ。)
しかし母の予想に反して、娘キャサリンは全く別の意味で「強かった」のである。
キャサリン・ウィロビーは、第11代エリスビー男爵とスペイン出身の妻マリア・デ・サリナスの娘として、1519年3月22日誕生した。ウィロビー家は裕福な家柄であり、キャサリンはその、ただ1人の相続人だった。
1526年、キャサリンはサフォーク公爵夫人となっていたメアリー内親王(ヘンリー8世の妹)に気に入られ、長男ヘンリー(1515年誕生)と婚約、18歳になったら結婚すべく、メアリー内親王の手元に引き取られ、大切に養育されていた。
ところが・・・・・1533年6月25日、メアリー内親王が亡くなると、夫のチャールス・ブランドンは養女キャサリンと関係を持ち、翌年9月に正式に後妻にしてしまったのである。
キャサリン14歳、チャールス・ブランドン49歳だった。
(ちなみに、チャールスは形だけの婚約を含めて4回の結婚歴があるとされたので、メアリー内親王は5人目の妻、次のキャサリンは6人目の妻ということになる。)
息子ヘンリーはどんな思いでいたのかは不明だが、1535年結核で早世した。
時にキャサリンは妊娠6ヶ月、その年の9月には2代目サフォーク公となるヘンリーを出産している。
2年後には二番目の子、チャールスが誕生した。
チャールス・ブランドンは、先妻の息子が亡くなってもあまり悲しまなかったという
否、この男は先妻メアリー内親王が病床にあった時も、大して関心を見せなかった。
1545年、チャールスは60過ぎたばかりの年で亡くなった。
早くに母の手を離れたキャサリンにとって、愛に殉じた元王妃など過去の人であった。
カトリック教徒だったキャサリン・オブ・アラゴンよりも、ヘンリー8世の現王妃キャサリン・パーに親近感をおぼえていた。
彼女は積極的にキャサリン・パーの元に出入りし、王妃の主催する聖書研究会に参加して、「福音」原理主義者へと変貌を遂げていく。
確かに、女性にも発言権を認めたピューリタニズムは女性解放の側面もあったことは否定できない。
ピューリタニズムがあったからこそ、女王が立ち、女性がラテン語聖書を翻訳するという快挙を成し遂げられたのである。
しかし同時に、女性もまた狂信的な発想に取り憑かれる可能性があるという事実をも証明した。
そして今日にも見られる果てしない宗派間の報復合戦へと変化していくのである。
「飾り気のない教会の壁に、私たちは人間の惨めな姿を見るべきです。」
(英国ルネサンスの女たちP261より/劇「サフォーク公爵夫人」のセリフ)
1551年7月14日。ケンブリッジ大学の学生だった息子のヘンリーとチャールスが、腸チフスで同じ日に息を引き取った。
サフォーク公ヘンリー16歳、弟チャールスはわずか14歳だった。
不在になったサフォーク公爵位は、ただ1人生き残っていたブランドン家直系のフランシス(メアリー内親王の娘)に受け継がれ、自動的にフランシスの夫ヘンリー・グレイが相続した。
(しかしこの家系も、ヘンリー・グレイと娘ジェーン・グレイが処刑されたことから断絶してしまう)
息子達の死の翌年、突如キャサリンは自分に仕えていた執事(家令)のリチャード・バーティと再婚した。
周囲はその身分違いのカップルに驚愕したが、キャサリン自身は堂々と宮中の庭で式を挙げたのだった。
1553年メアリー1世が即位した。母マリアが心から慕ったキャサリン・オブ・アラゴン元王妃の娘であった。
母が生きていたら、さぞかし喜んだにちがいないのに、キャサリンにとっては戦闘の始まりであった。
メアリー1世女王の側近ガードナー司教は、バーディを通してキャサリンの説得を試みたが無駄だった。
1555年元旦、キャサリン夫妻は真冬のロンドンの暗闇の中、ネーデルランドへ亡命すべく、テムズ川を下っていった。
20年前の同じ日、母マリアが暗闇の中、キャサリン元王妃のもとへ走ったのとは対照的に、ピューリタン原理主義者として、果てしない宗教戦争への「出陣」だった。
キャサリンこそ、あの原理主義者ジョン・フォックスが著書「殉教者列伝」の中で讃えるほど、生粋の女ピューリタンだった。
ネーデルランドからドイツ、ポーランドへとカトリック勢力と戦いながらの旅である。
ドイツでは敵の傭兵部隊に襲われ、危うく皆殺しになるところだった。
1559年、エリザベス1世が即位し、大陸から続々とプロテスタントやピューリタンが帰国しはじめた。
キャサリン夫妻もまた、1599年3月ようやくロンドンにもどった。
エリザベスとピューリタン達は最初のうちこそうまくいっていたが、やがて英国国教会の改革をめぐって対立が芽生え、最終的に大々的な迫害へと変化していく。
その歴史の流れの中で、キャサリンは財産をヨーロッパ転戦のうちに使い果たし、ブランドン家の最後の娘、メアリー・グレイ(ジェーン・グレイの妹)の没落をも手をこまねいて見ているしかなかった。
事実上、サフォーク公家は断絶した。キャサリンはせめて二度目の夫に実家ウィロビー卿の地位を与えようとしたが失敗した。
1580年9月19日、キャサリンは夫に見守られて61歳の生涯を閉じた。
半世紀後ーーーーー
17世紀初頭(1624年)ロンドン/幸福シアターで、キャサリンをモデルにした「サフォーク公爵夫人」という劇が上演され、その中でヒロイン・キャサリンはピューリタン思想を雄々しく叫んでいた。
いつしかキャサリンは、ドイツに嫁ぎ、宗教戦争に巻き込まれた悲劇の王女エリザベス・ステュアート(ジェームズ1世の長女)と同一視された。
今ドイツにいる悲劇の王女への人々の同情が、半世紀前の女闘士の伝説を蘇らせたのである
「ハデな服装、刺繍で飾られた掛け物、豪華な壁掛けなどは信仰の妨げになるばかり。
邪魔物のいっさいないところで、私たちは天に負う務めに励まなければなりません。」
(英国ルネサンスの女たちP261より/劇「サフォーク公爵夫人」のセリフ)
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
英国ルネサンスの女たち 楠明子 みすず書房