家系図
人物一覧
1488年、トーマス・ハワードは暗く淀むテムズ河の水面を見つめていた。
父が戦死し、自分もまた捕虜としてロンドン塔に幽閉されてから、3年の歳月が流れていた。
トーマスは42歳になっていた。
「勅命である。」
突然、ヘンリー7世から、ある命令が下された。
(北の戦場へ行け)
かわりに、おまえ自身が持っていたサリー伯爵領と爵位は返してやる、という条件がついた。
しかし、ノーフォーク公爵位は返ってこなかった。
翌年、トーマスは対スコットランド戦のために、国境線にいた。英国はスコットランドの暴れ馬ジェームス4世の侵攻に苦しめられていた。軍事費がかさみ、重税と徴兵制に怒った地方で反乱が起きた。トーマスはジェームス4世の軍を駆逐し、返す刀でコーンウォールの反乱を鎮めた。
サリー伯トーマスへの信頼は徐々に回復しはじめた。1501年6月25日には大蔵卿に任命され、宮廷での地位も固まってきた。
1502年1月、スコットランドは英国との和平条約に応じ、翌年8月ヘンリー7世王女マーガレットがジェームス4世に嫁いだ。
その花嫁行列を指揮し、スコットランドまで付き添ったのがサリー伯であった。
サリー伯は1人の青年に目を留めた。貴族ではなかったが、コーンウォール反乱鎮圧のおりの活躍が印象に残っていた。
トーマス・ブーリンという、ロンドン市長の息子だった。サリー伯は長女エリザベスとの縁談を決めた。
1509年11月、長女エリザベスはブーリン家に嫁ぎ、次女のミュリエルはライル卿ジョン・グレイと結婚した。
その半年前の6月には、ヘンリー7世の死を受けて皇太子が新王ヘンリー8世として即位していた。
薔薇戦争の時代は、過去のものになりつつあった・・・・。
1513年6月30日、新王ヘンリー8世は、新しい軍艦「ヘンリー号」に乗り込み、対フランス戦線に出発した。
2ヶ月後の8月22日、ヘンリーがフランス中部に達した頃を見計らうように、突如ジェームス4世が大軍を率いて侵攻してきた。
国王代理だった王妃キャサリンは、軍人として名高いサリー伯に、出陣を要請した。
サリー伯はすでに70歳・・・・長年通風に苦しみ、馬に乗ることさえ難しい有様だった。
だが国難を前に、王妃の切実な瞳を見た時、断ることなどできはしなかった。
彼は長男トーマスに付き添われ、担架に乗って出陣した。途中ダーラムの大聖堂で、聖カスパードの大旗を手に入れた。150年前、やはり国境を侵犯したスコットランド軍を打ち破り、英国側の手に渡った戦勝記念の旗だった。
頭上に聖者の旗が翻るのを、サリー伯は眩しげに見上げた。
9月9日、英国軍はスコットランド軍に宣戦布告状を叩きつけた。ジェームス4世は、担架に乗った病身の将軍を鼻で笑い、英国軍を見ろすフロッドンの丘に布陣した。
サリー伯は、正面攻撃は無理だと判断して、敵の後方に回り込むよう命じた。英国軍は、丘と国境線の間を黒い川のように流れていった。
スコットランド軍は、敵がそのまま国境線を越えると信じて、慌てて移動を開始した。
その瞬間、サリー伯は全軍に攻撃命令を下した。ギリギリまで敵をひきつけ大砲を撃ち込み、戦列が崩れたと見るや、短剣や鎌を構えた英国兵が突入していった。戦いはたったの半日で、圧倒的な勝利で終わった。
サリー伯は死体の山の中からジェームス4世の亡骸を見つけ出すと、防腐処理をして、リッチモンド宮殿へと送った。
この功績により、1514年2月1日、ついに悲願であったノーフォーク公爵位を取り戻した。
父の戦死によって、爵位を失ってから30年の月日を経ていた。
その後もノーフォーク公は、国の重鎮であり続けた。
特に1520年の「金襴の陣」では、ヘンリー8世が王妃を連れて国を離れたため、国務を任された。
1524年、彼は母の実家であり、今は跡継ぎもなくなったモーブレー家が所有していたフラムリンガム城で死の床についた。
子供の頃、遊んだ城、父がボズワースに出陣する寸前まで、修復に力を注いでいたこの城で・・・・・・
1524年5月21日、ノーフォーク公は没した。享年81歳。
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
サウスヨークシャーRotherham公式サイト
フラムリンガム城サイト
Whos Who in Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
→目次へ