初代サマーセット公「良き公爵様」エドワード・シーモアウェストン・パーク所蔵/シーモア家の起源           シーモア家系図 

 

 シーモア人物一覧

 

 シーモア家は、チューダー家やグレイ家のような、ウェールズ系ではなかった。その起源はフランス/ロワール地方のst.Mour(サン・モウ)家である。1066年、サン・モウ家当主ウィリアムが、ノルマン王朝が成立した時に、ウィリアム征服王に従って渡英したのが始まりであった。その子孫にあたるウィリアム・セント・モア(サン・モウ)は13世紀初頭、ウェールズ地方モンマスの領主となり、その地にペンハウ城と教会を建設した。
 14世紀中旬、ロジャーはサマーセットの領地を入手。その息子のウィリアムの代から、フランス風の綴りであるst.Mour(サン・モウ)改めSeymore(シーモア)と名乗った。その子ロジャーもまた隣接するウィルトシャー領主との縁組みでウィルトシャーの一部と、居城であるウォルフ・ホールWolf Hallを手に入れたのだった。

ヘンリー8世最愛の王妃、ジェーン・シーモア/ホルバイン作/1536~37/ウィンザー城王室コレクション

16世紀、チューダー王朝が成立すると、当主ジョン・シーモアは、ヘンリー7世に従って「コーンウォールの反乱」を鎮圧し、恩賞に「サー」の称号を賜った。
 そのお陰でシーモア家は中央政界に進出するチャンスを得たのである。
 ジョンには9人の子がいたが、二女のジェーンは、時の国王ヘンリー8世の3度目の王妃となり、1537年、後のエドワード6世となる王子を産んだ。

 


 ジェーンの兄エドワードは、王子の洗礼式にあやかり、ハットフォード伯位を賜り、エドワード6世が弱冠10歳で即位すると、摂政サマーセット公に任命された。
 また、1547年には、紋章院長官に任命された。

 サマーセット公エドワードは、英国国教会のプロテスタント化を推進し、当時社会問題になっていた囲い込みを阻止しようとした。
そのため民衆からは「良き公爵様」として人気があったものの、貴族層からは憎まれ、1549年の「ケットの乱」の責任を取らされる形で失脚。551年、ロンドン塔で処刑された。
 その息子である第2代ハットフォード伯エドワードは、王位継承権を持つキャサリン・グレイと無許可で結婚したためにエリザベス女王の怒りを買った。
 1561年ロンドン塔タワーに投獄され、15000ポンドもの罰金を科せられた。
 その9年後の1570年、ようやく解放された。

 エドワードの孫に当たるウィリアムは、王位継承権を持つアラベラ・スチュアートと結婚した。
 ピューリタン革命の最中には、フランスに亡命中だった皇太子チャールスを支援し、王政復古後恩賞として第2代サマーセット公の称号を許された。

 現在のシーモア家当主は代19代サマーセット公である。
 ジェーンが王妃となった祝いに、初代サマーセット公に下賜されたメイデン・ブラッドリーに家族と共に住み、邸宅の一部はホテルとして一般に開放している。
 また、邸宅の周辺にはシーモア家の所有したボムロイ城などがあり、ナショナルトラスト地域に指定されている。

参考資料
the Tudor placeorge H. Castelli
Whos Who in Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4)
英国貴族に出会う旅 津野志摩子 東京書籍