top of page

サン・ジュストとは何者か

1792年11月13日、国民公会ルイ16世裁判にて

銀色がかった金髪に青い瞳、うつむき加減のはにかんだ若い男が一人
名を呼ばれて壇上に上がった。会場に詰めかけた人々は大半がその名前を知らなかった。
無名であるとともに、群衆に気圧されているような男の態度もまた、笑いを誘った。
皆がその名を忘れがたく心に刻むのは、それから数十分後のことである。

「よう!素人!足下が震えてるぞ。」
青年は罵声を無視して静かに口を開いた。

青年は罵声を無視して静かに口を開いた。はじめはたどたどしかった言葉は、先に進むに連れ確信を帯びた響きに変わった。それと連動するかのように、傍聴人もまた罵声を飛ばすのを止め、憑かれたようにその声に耳を澄ませた。

 

はじめはたどたどしかった言葉は、先に進むに連れ確信を帯びた響きに変わった。
それと連動するかのように、傍聴人もまた罵声を飛ばすのを止め、憑かれたようにその声に耳を澄ませた。

「人は罪なくして王たりえない。罪を犯すことなくして王として君臨する
 ことなどありえない。国王こそ反逆者であり、国民の主権の簒奪者なのだ」

男は暗記した原稿を諳んじるにつれ、自らに酔いしれた。聞く者もまた、その確信に満ちた言動に酔っていた。
男の言葉の一言一言が、皆の胸に隠されていた野蛮で力強い衝動に火をつけた。
演説が終わった頃、人々は口々に「ルイ16世を殺せ!」と叫んでいた。
フランスは初めて国民の名において国王の処刑を決定した。フランスはもはや王政を必要としていなかった。

ルイ・アントワーヌ・サンジュスト 25歳。

それから時を遡ること25年前、ルイ・ジャン・サンジュストの妻マリアンヌ・ロビノは初めての子を産んだ。
父ジャン・ルイにとって50歳にして初めての子であった。慣例に従って、赤ん坊は翌日には洗礼を受け、名前を
与えられた。

「・・・育てられないわ。」
マリアンヌは産着で包まれた小さな固まりを抱きしめながら、呟いた。
マリアンヌの実家ロビノ家は豊かであったが、サンジュスト家は努力によってシュバリエ(最下位の貴族)の地位を
得た、貧しい家系であった。親の反対を押し切って結婚・・・・周囲は年齢も貧富も差が在りすぎる2人を
祝福しようとはしなかった。
(私達の居場所はここにはない・・)
2人は自分たちの居場所を探すつもりであった。いつ終わるともしれぬ旅路に、赤ん坊を連れていくのは無理だった。

「私が育てよう。」
マリアンヌの兄にあたるアントワーヌがそういって赤ん坊を受け取った。
「かならず迎えに来ますから。」
そう言い残して、両親は旅立った。

アントワーヌ・ロビノは素朴で信心深い司祭であった。
ある日幼いルイは伯父に手を引かれて歩きながら腐りかけた動物の死骸を見た。
「伯父さん、人も死んだらああなるの?」
伯父は胸で十字を切りながら答えた。
「人の肉体も死んでしまえば、いずれあのように腐ってしまう。
 しかし、魂だけは死ぬことはなく、神の前に立つのだよ。」
ルイは神の存在にはピンと来なかったが、死というものは身近に感じた。

 

1777年、夫妻はピカルディー地方のブレランクールという小さな村に居を構え、後から生まれた2人の娘と共に
ルイを引き取って暮らし始めた。
気むずかしい少年だった。家族にも心を開かず、新しい土地にも馴染まなかった。
自分を育ててくれた母方の伯父もすでに亡かった。高齢だった父は、ブレランクールに移って間もなく病没した。
残された家族の中で、ルイがただ一人の「男」だった。
父が亡くなってから家計はさらに傾いた。わずかな所領から得る収入もここ数年の飢饉のためにあてにはできなかった。
飢饉に苦しむ農民の姿を間近で見ながらルイは成長していった。

そんなサン・ジュストにも友人ができた。ピエール・チュイリエは、友が出世して後も秘書として側にいた。
そしてサン・ジュストが26歳の若さで非業の死を遂げた。直後、後を追うように衰弱死したという。

同じ頃、人生を左右するもう一つの出会いがあった。サン・ジュストには幼なじみの少女がいた。
ルイーズ・ジュレは同じブレランクールの出身だった。
もっとも彼は13歳から18歳までの5年間を全寮制の学校で過ごしている。
ので、出会っているとしたら、10~ 13の間の出来事だろう。
2人は共通の友人の子供の名付け親を務めるほど親しかった。休暇で実家にもどった時、ルイーズに愛を告白した。
時にルイ・アントワーヌ18歳。

「俺は将来パリに出て作家になるんだ。」
サン・ジュストはそううち明けて作品を読んで聞かせた。
「あなたには才能があるわ。ぜひやってごらんなさいよ。」
ルイーズはそういって励ました。2人で歩く古城の道は至福の一時だった。

だが、ルイーズは最終的に別の男を選んだ。父親がサン・ジュストとの結婚に反対していた。そのせいかどうか定かではないが
ルイーズは唐突にフランソワ・トランという男と結婚してしまった。

ルイは激しく動揺した。ランスの大学に進学したが、その頃から奇妙に死への憧れに取り憑かれるようになった。
下宿の一室では、壁を黒く塗り、光を閉め出した部屋の中で「すでに自分は死んで埋葬されている」幻想を楽しんで

いたという。

大学を卒業してパリに出た彼は、やがて一つの作品を書き始める。
世はフランス革命直前。貴族、宗教関係者、一般市民からなる三部会が開催され、街には毎日のように反王政の

暴動が荒れ狂っていた。そんな騒ぎをよそに、サン・ジュストは一人ある時は黙々と、ある時は狂ったように笑

いながら執筆し続けた。

「オルガン」それは奇妙にして猥雑な作品だった。

一見アーサー王物語風の騎士冒険物語だが、騎士道は微塵もなく、主人公の連れている女はあっという間に暴漢に
さらわれてしまい、好色な僧侶に犯されたり、主人公もロバに変身して犯したりといった内容である。
法王や歴史上の人物の名前が散りばめられている。
そもそもオルガンとは当時の隠語で女性の恥部をさす。

主人公は作者自身、犯されているヒロインのモデルはルイーズではないかと言われている。

その作品を発表したために警察から追われるはめとなり、転々と住居を変えているうちに例のバスチーユ陥落が起きる。
当局は、オルガンの作者逮捕どころでの話ではなくなった。
いよいよフランス革命の始まりである。隠れていたルイは、自らもまた全てを破壊し尽くす歴史の津波へと身を投じる。

一度は捨てた故郷ブレランクールに戻った。そこもまた革命の余波をうけて党派が小競り合いを演ずる場所であった。
村の支配層にはルイの結婚に反対したルイーズの父親やルイーズの夫などが含まれていた。
ルイはかれらに敵意を露わにしながら政治活動を開始する。
巧みなパフォーマンスと演説で人目を集め、やがて小さいながらも党派らしきものを結成した。

ブレランクールの小競り合いなど、全国的規模から見ればコップの中の嵐に過ぎない。
だが、一度芽生えた権力への指向は留まるところを知らなかった。

1790年、パリではバスチーユ陥落一周年を記念する連盟祭が開かれた。その式典に、ルイはブレランクール代表

として出席する。現在エッフェル塔を見上げ る広大な広場は、当時シャン・ド・マルスという軍の教練所であった。

全国から集まった代表と見物人合わせて数万人が同じ熱狂を分かち合い、歓声をあげた。
新しい時代の始まりであった。

サン・ジュストは再び故郷にもどり、革命についての著書を発表する。「革命の精神」という名であった。
彼にとってまだ支配者のいなかったギリシャ時代こそ理想だった。
古代ギリシャが滅びて以降、18世紀まで、支配者が君臨して人民を苦しめた歴史など無に等しかった。

人間はそうした圧政と混乱の中から暴力を求め、やがて 秩序を回復しようとする。しかし秩序にはルールが必要だった。

ルールとは何か。政府である。では、政府とは?・・・・民衆をルールから逸脱しないよう統制 することのできる強力な革命政府である。
「愛国心とは、現在の政治体制を支持することである」と、彼は断言している。

        

革命を必要としていたのはフランスだけではなかった。サン・ジュストもまた自分自身の変革を

・・・革命を切望していた。
悩み傷つく卑小な自分を捨て去り、さらなる高みを目指す。革命という大いなる存在と融合し、不滅の魂となるのだ。
それは一種の新興宗教にも似た熱狂だった。その頃かれが書いた戯曲「道化師ディオゲネス」にはこんな言葉が現れる。

「俺は自由だ。人の持つ愚かさから解き放たれ、 愛も快楽も踏みにじってやる!」

サン・ジュストは自分だけの宗教にうってつけの教祖を見つけた。
マクシミリアン・ロベスピエール。弁護士出身の、理論派の議員である。
革命に対する演説は鋭く、ジャコバン派のリーダー的存在であった。
ルイはマクシミリアンの中にカリスマを感じた。理想化した自分を見た気がした。

1791年、サン・ジュストはラブレターのように熱烈にマクシミリアンを賛美する
手紙を送った。そして自分も国会議員になるべく立候補するが、年齢が若すぎることを理由に失格。
翌年、ようやく満24歳になって議員資格を得た。さっそく故郷の属するメーヌ県で立候補・・・めでたく当選。
パリに上京してロベスピエールの忠実な弟子として、スポークスマンを務める。

そして迎えた1792年のルイ16世裁判である。
当時議会を二分していた勢力ジロンド派は、国王の処刑には反対であった。
一方のロベスピエールを核とするジャコバン派は処刑に賛成。勢力は拮抗していた。
そこにサン・ジュストが、ロベスピエールの意向を受けて現れた。
彼はフランスに立憲君主制など必要はない、国王であることは犯罪行為だと力説した。
これによって両意見のバランスは崩れた。議会はなし崩し的に国王処刑の方向に傾いた。
翌1793年1月、ルイ16世はギロチンの露と消えた。

彼は経済活動に嫌悪感を感じていた。
この世に商人はいらない、農民と軍人だけでいい・・・彼の理想社会は古代ギリシャのスパルタのような軍事国家だった。
絶対王政が崩れて自由経済社会へと歴史が転換していく中、時代と逆行していた。当時の人間の目にさえ、彼の発想は

奇異にうつった。サン・ジュストはその思想だけでも敗者に位置づけられていたのだ・

同じジャコバン派の議員の中には、嫌悪感を示す者もいた。
ダントンは露骨に「俺はあの変人は好きにはなれない」と吐き捨てた。

そうした先鋭さはおのずと革命政府内部に亀裂をもたらした。やがてダントンやデムーランを中心とする穏健派と

ロベスピエールやサン・ジュストを核とする急進派との間に権力闘争へと発展していった。

ルイはダントンの金にだらしがない点に目をつけ、そこを攻撃した。

 

1793年3月、ダントンとデムーランは逮捕された。ダントンは落ち着いたものだった。
両雄並び立たず・・・
「殺したければ殺せばいい。陽気に死んでやる。」

革命裁判所で審議が始まった。そもそもこの革命裁判所は、疑惑を受けた人間の白黒をハッキリさせ、助ける目的でダントン自身が設立したものだった。例によって窃盗容疑から始まり、スパイ容疑、汚職疑惑など持ち出される。
いずれもほとんど根拠がない。ダントンが証言台に立ち、自らの弁明を始めた。彼が語れば語るほど、裁く側の非が浮き彫りになった。

公安委員会は動揺した。一方の「ライバル」として祭り上げられたロベスピエールも困惑していた。
(これでいいのか?本当に正しいことなのか?間違ってやしないか?)
一人サン・ジュストだけが、天使とは言い難い三日月型の笑みを浮かべて言い放つ。
「被告を黙らせろ」
ダントンとデムーランの発言は法廷侮辱罪として禁止された。

その頃デムーランの愛妻ルシールは、夫を助けるために必死だった。
知人の間を駆け回り、抗議活動をしてくれるよう頼み込んでいた。これを知り、サン・ジュストは再び微笑んだ。
クーデター計画に違いない。国家反逆罪だ。ダントン派とデムーランの死刑が決まったも同然だった。
ついでにルシールも逮捕して死刑を宣告した。夫が処刑され、間もなく自分も死ぬと聞いて、ルシールは誇り高く顔を

上げる。「夫は間違っていなかった」と。
断頭台に上がりながら言い放った。
「今会いにいくわ、カミーユ(デムーラン)!」

死を前にして、ダントンは初めて涙した。妻は今、妊娠中だった。
「弱気になるな。たかが権力闘争に敗れただけだ、恥ではない。勇気を持て!」
そう自分に言い聞かせて、彼は断頭台に登る。デムーランは妻まで処刑されると知って茫然自失だった。

形式的にはロベスピエールの「陰謀」だった。彼はショックのあまり家に閉じこもる。
(やりすぎだ・・ここまで、やる必要はなかった。)
うちひしがれ、恐怖に震えるロベスピエールの後ろから、サン・ジュストが囁いた。
「革命は、やれところまでやらないと、自滅するだけだ。途中でやめれば死ぬしかないんだ・・・。」
青空のように澄んだ、確信に満ちた瞳で。

ふと気づけば彼は一人だった。ふりむいて後に続く者がいない。皆が彼の才能を持ち上げながら、遠巻きにしていた。
サン・ジュストの提案した法令もアイデアも、ほとんどが修正されていた。おもしろくなかった。
彼は一人墓場を彷徨い歩き、瞑想した。足下から自分が死に追いやった者たちの手が伸びてくるのを感じていた。

死の幻想を見ながらサン・ジュストは呟く。
「この世から孤立し、自分自身からも孤立する者は、その錨を未来へと 投げかける」
詩的な表現である。サン・ジュストは政治家よりも詩人であり、クリエーターだった。
芸術家であったからこそ、独自の禁欲的ライフスタイルを守り、自分の世界観を築きたかったのかもしれない。

そんなサン・ジュストが慰めを見いだしたのは軍隊だった。
軍隊にある種の美があることは、中国の兵馬俑やナチスドイツの軍服などからもうかがわれる。
一糸乱れぬ動き、戦う者だけが持つ緊張感、ストイックな機能美・・・・もちろん彼を魅了したのは、そうした点
ばかりではない。

フランスはルイ16世夫妻を処刑したことで、全ヨーロッパを敵に回していた。
緊急に国軍を立て直し、外敵に対処する必要に迫られていた。
非常事態が宣言され、ラ・マルセイエーズの歌声が響いた。
「祖国フランスは危機に瀕している!」
すでに前政権担当者だったジロンド派は国民30万人動員に失敗していた。
兵営には兵士の妻や娼婦が入り浸り、軍規も機能しているとは言い難かった。
ジャコバン派の議員であり、公安委員会のメンバーでもあるサン・ジュストは、その責務を果たさねばならなかった。

北部・対オーストリア戦線に派遣されたルイが見たものは、悲惨な状況だった。
着る物も食料もなく、裸足で飢えている兵士たち・・・・・・
彼は直ちに議会に報告するのと同時に、緊急措置として近郊の特権階級から2万人分の靴と服を集めさせた。
たった一晩で・・・・・。

ルイは派遣先のストラスブールで、いがみ合うジャコバン派と親ジロンド派を前に
「おまえら、何をしている?任務の邪魔だ!」
と言わんばかりに両者を逮捕。軍事・民事両方を裁く裁判所を設置した。

こうした強大な権力もまた、サン・ジュストを魅了したに違いなかった。
中央では絶え間ない政争に巻き込まれるだけだったサン・ジュストも、ここでは最高権力者であった。
しかし公安委員会の意見はかならずしも一つではなかった。同僚のルバやカルノー。
配下の将軍達にもそれぞれ意見があった。サン・ジュストはまるで自分の芸術品にケチをつけられたかの如く逆上する。
反抗したオッシュは監禁、カルノーとは殴り合いになった。
それ以前にも議会で口論のあげくに決闘を申し込まれ、断って蹴られるという
出来事があった。子供の頃から気性が激しく、喧嘩っぱやい一面があった。

 

つまらない喧嘩などしている場合ではなかった。
北部戦線はまさにフランス軍対連合軍の戦闘真っ最中だった。
アルデンヌ方面軍を率いるルイは抜刀し、乗馬して軍の先頭を突っ走る。
この頃が、サン・ジュストの短い生涯のうちで、もっとも輝いていた時期かもしれない。
しかし残念ながら、サンブル河を渡る作戦は敵の猛反撃を喰らい、5回も失敗。
仕方なくカルノーは苦戦中のアルデンヌ方面軍を他の部隊と併せて配下のジュールダン将軍に任せた。

その頃パリの公安委員会からは北方軍の一部を移動するよう命令が届いた。
ジュールダン将軍は「そんなことをしては、全軍が危機に陥る!」として拒否。
サン・ジュストは自分が負けたことは棚に上げ、「負けたら殺す」と脅したが、将軍達は一歩も譲らなかった。

連合軍との小競り合いを、いつまでも続けているわけにはいかなかった。
いずれ雌雄を決しなければならない。そして1794年6月16日、フルーリュスの会戦を迎える。
対する連合軍15万、フランス軍はその倍数だった。
これで勝たない方がどうかしているが、戦闘は各方面軍が個別に行ったも同然だったので、一進一退の状態が続いた。
だが最終的には連合軍側が数の不利を悟って撤退することに決めた。
当時の資料では連合軍側の方が多かったとされるが、実際はフランス軍の方が動員人数がはるかに多かったのだ。

こうして北部方面の平和は確保した。勝ってもなお、ルイとカルノーの内輪もめは続いた。
一方パリからはロベスピエールと反対勢力との抗争が激化したとの不吉な知らせが届いた。
サン・ジュストの最期の戦いは、これから始まろうとしていた。

反ロベスピエール勢力の中心は、南部フランスに派遣されていた議員達だった。
サン・ジュストのように対外戦争に参加していた者は運が良かった。
フーシェ、コロー・デルボア、カリエらのように、国内の反乱鎮圧に赴いた者はゲリラ的抵抗にいらだち、
あるいは金目当てに、各地で虐殺を繰り広げた。それをパリで虐殺していたロベスピエールが「やりすぎだ」と
非難したのだった。
同じく「やりすぎた」者同士が互いを引きずり下ろそうと必死だった。
傍観者のはずだった他の議員達も、マクシミリアンの無差別な猜疑心と攻撃に身の危険をおぼえていた。

サン・ジュストは何とか両者を和解させようと試みた。
今まで譲歩を潔しとしなかった男が、初めて全面的に譲歩する構えだった。
ルイはその文才を傾けて一世一代の名演説を書き上げた。
演説というより朗読するといった方がふさわしいような、前もって議員達に聞かせていたなら、皆がルイを新しいリーダー
に祭り上げかねないような名演説だったという(実際は内容は不明)。
が、彼は「散歩から戻ってきたら発表する」と言い残したまま、行方をくらましてしまう。
そして昼近くなって、いきなり議会に現れた。「ある人が俺を傷つけた」と呟きながら。

 

「ある人」とは誰のことだったのかは、不明である。推測するに、ロベスピエールンだったのではあるまいか。
二度の暗殺未遂事件に非難中傷が、彼ををルイさえ拒否するような精神状態にまで追いつめていた。

1794年、7月27日。
議会は興奮のるつぼだった。サン・ジュストが演説を始めると、反対派の議員が中断しにかかり、ルイを待ち続け
て裏切られた議員達が怒りながら雪崩れ込んできた。ロベスピエールが壇上に登れば敵の一人がナイフをふりまわし
絶叫し始めた。後は群衆心理の暴走だった。
「裏切り者!」「人殺し!」「独裁者!」「逮捕しろ!」
こうしたヒステリー状態が大嫌いだったらしいルイは、依怙地なまでに口をつぐんでいた。
間もなく怒号のうちに、ロベスピエールとその仲間は逮捕されてしまった。

誰もが何が起きたか、次に何をすべきかよくわかっていなかった。
マクシミリアン達は逮捕されたんだか、立てこもるんだか、よくわからないままリュクサンブール監獄に移った。
そのうちロベスピエール支持者達に、強引に連れ出されるような形で救出された。
下町の活動家達は、さんざん迫害されリーダーを処刑されていたので、積極的に動こうとはしない。
パリ中がどうしていいのか迷っていた。

この時、ロベスピエールの側に一人でも切腹覚悟で徹底抗戦しようという覚悟の者がいれば、事態は変わっていたかも
知れない。下町のコミューンが背を向けたにせよ、支持者はまた大勢いたのだ。
だが、誰一人行動を起こさなかった。マクシミリアン自身、「法律に違反してやしないだろうか?」と迷うばかりであった。
その迷いが命取りになった。抗戦の決意を固めるよりも早く、敵が攻めてきた。


ロベスピエール達が立てこもっていた市役所はたちまち修羅場となった。
ある者は窓から身を投げて血まみれになって路上に倒れ、ある者は銃で自殺し、ロベスピエールも撃たれて顎に大怪我を負った。ルイだけが、まるで台風の目に入り込んだかのように、無傷のまま立っていた。
その晩傷ついたロベスピエールの傍らで、サン・ジュストは涙していたと伝えられている。
破滅を前にして、2人の脳裏には走馬燈のように、過去の出来事が浮かんでいた。
(終わったな・・。)
(もういい、もう終わりにしよう、ロベスピエール。)
言葉にならない諦念の思い。お互いに、これ以上生きていたいとは思わなかった。

短いようで、長い3年間だった。
ほぼ100年に匹敵するような勢いで時代が移り変わった。
王制が倒れ、共和国となり、外敵を追い払い、ひとまず危機は去った。
やるべきことは、やり尽くした。役を終えた者は、舞台を去るだけだった。

純粋に、あまりにも純粋に願い続けた。
願えば、叶わぬ夢などないかのように、信じて疑わなかった。
誰もが平等で、搾取されない社会。衣食住を満たすだけでなく、さらに上の「幸福」を追求する権利。
考えてみれば、幸福という考え方もまた、新しい概念だった。

深い諦念とともに、ある種の満足が広がった。
ロベスピエールもサン・ジュストも、決して到達することのないゴールに向かって全力で走り続けた。
その間には、幾つもの死体の山を築いた。
今度は自分たちが、死体の山に加わる番だった。悔いはなかった。

今まではパリの隅に追いやられていた処刑台が、再びパリの中心・革命広場にもどされた。
さながら祝祭のパレードのように、群衆の間を囚人護送車が行く。囚人達が目にする最後の陽が暮れようとしていた。

処刑の順番が回ってくると、サン・ジュストは立てない仲間の一人を抱擁し、
ロベスピエールに一言「さようなら」と声をかけた。
ヒステリックに騒いでいた群衆も、サン・ジュストのあまりにも平然とした態度と若々しさに息を飲み、沈黙した。
サン・ジュストにとって生も死も、後世の前で演じられた舞台であった。群衆の前でも、彼は立派であれねばならなかった。
かれは人生という舞台を華々しく演じきった。
その首は切り落とされてもなお、未来に向けて澄んだ瞳を見開いていた。
しかしその本心を思うとき、果たして真実満足であったかどうか、定かではない。

 

                       End

                 

bottom of page