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 この時代の英国史の特徴は、ダラダラと続く王位継承をめぐる戦争にある。
 まずは英国とフランスの間の「100年戦争」
 もともと中世フランスは封建領主が寄り集まって各地を支配しており、それを束ねる役として国王が存在していたに過ぎない。「象徴として国王」であっても後世のような絶対君主を想像してはならない。
 封建領主は家系の断絶や閨閥関係から、時に領主がイギリス人だったりする場合もあった。

 そのいい例がアリエノール・ダキテーヌ。アキテーヌ地方の女領主で最初はフランス王妃だったが、後に結婚を解消して英国王ヘンリー2世と再婚したので、アキテーヌは英国領の一部となった。
 またフランス王位もまた、1453年シャルル4世の死でカぺー朝が断絶し、新たにヴァロア王朝が成立したが、時の英国王エドワード3世はシャルル4世王の甥である事を理由に、フランスに対して王位継承戦争を起こした。
 そんな事で始まった100年戦争。戦ったり休戦したりと、英仏は1339年から1454年まで足かけ115年に渡って反目していたのである。

 1339年スロイス沖海戦や1346年クレシーでの戦いに勝利した英国はその勢いでフランス側のカレー港を占領、そしてポワティエの戦いではフランス王ジャン2世を捕虜にするほどだった。
 さらに英国側は1415年フランスのアジャンクールでアルマニャック派軍を大破し、庶子疑惑のあったシャルル6世の皇太子を南部フランスへ放逐し、北部フランスを手中に収めた。そんな時現れたジャンヌ・ダルクが「神の名の下に」皇太子の庶子疑惑を払拭させ、フランス王シャルル7世に冊立した。

 以降英国側は何度もの講和を重ねた末、カレー港を残してフランスから撤退する。
 1453年ボルドーの返還によって、英国側は逆転敗北した。

 

 一方英国では、100年戦争の英雄ブラックプリンス(100年戦争を始めたエドワード3世の皇太子)が早世したので、その息子のリチャード2世が即位したが暗殺され、跡継ぎもいないことから、プランタジュネット本家は滅亡する。

ヨークとランカスター家系図

 それにかわってエドワード3世の3男坊ゴーントの子、ヘンリー4世が即位。
 ランカスター王朝の始まりである。
 ゴーントには他にも側室キャサリン・スウィンフォードに産ませた息子がいて、その血統が後にチューダー王朝につながっていく。

 一方エドワード3世の次男坊エドマンドの血統が、ヨーク王朝を成立させる。
 このランカスターとヨークこそ、次の戦争である薔薇戦争の主人公である。
 なぜ薔薇かというと、ヨーク家の紋章が白いバラ、ランカスター家の紋章が赤いバラだったというのが一般的な説であるが、実際薔薇の紋章を使っていたのはヨーク家のみであった。

 従兄弟を暗殺してのし上がったヘンリー4世は、天罰のようにハンセン氏病に感染して悶死する。その後を継いだヘンリー5世も、フランス王女との間に王子が生まれて半年もたたないうちにフランスで病死。
 この王子、ヘンリー6世の母方の祖父こそ狂気のシャルル6世であった。
 そのせいかヘンリー6世も心が弱く、ヨーク家のリチャードが王位簒奪のために挙兵した。薔薇戦争の始まりである。

 しかしヨーク公リチャードは戦死、その亡骸には紙の王冠を被せられるという侮辱を与えられた。あやうく難を逃れたその息子エドワードは、姉の嫁ぎ先のブルゴーニュ公国に身を寄せ、1461年英国にカムバックして力づくで王位を奪い取った。
 ここにエドワード4世が即位し、ヨーク王朝が成立した。

 しかしエドワード4世の治世は決して安定したものではなかった。有力貴族や海外の王家との縁組みをしなかった彼は孤立し、王妃エリザベスの一族を重用した事も重なって、次々と重臣や弟達が背いた。
 中でも末の弟のリチャード3世は兄亡き後、兄の子供と妻を追放し、王位を奪った。

 その頃すでに対立していたランカスター家も断絶同然だった。
 エドワード3世の三男坊ゴーントは、嫡子ヘンリー4世の他に、側室キャサリンとの間に4子があり、後顧の憂いを無くすために王位継承権から除外されていた。
 しかし、その末裔であるサマーセット公ジョンは、早世したヘンリー5世の王妃が産んだ庶子・エドマンド・チューダー(父は王妃の侍従)に娘マーガレットを嫁がせる。
 こうして誕生した新興一族チューダー家の当主・リッチモンド伯ヘンリーは、1485年、ボズワースの戦いでチャード3世を戦死させる。
 リッチモンド伯はヘンリー7世として即位し、ここに16世紀を通して英国を支配したチューダー王朝が始まるのであった。

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ランカスター王朝最後の王リチャード3世(作者不詳)

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