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アーサー・チューダー/作者不詳/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
 

 アーサーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世と、王妃エリザベスの間の第一子として生まれた。
もともと敵対していたランカスター系のチューダー家の王と、ヨーク家の王女エリザベスの結婚は薔薇戦争の終結を意味するものとして歓迎されたが、後継者が生まれたことで、平和はより堅固なものとなった。

 アーサーが生まれたウィンチェスターという町は、「アーサー王と円卓の騎士」の円卓があった、とされる町である。
 長男がアーサー王ゆかりの町で生まれたというので、「アーサー」と名付けたという。
 一説によれば、「生まれてくる後継者を神格化するために」ヘンリー7世が、わざわざ産所をウィンチェスターに選んだ、ともいう。

 アーサーはわずか3歳で、一歳年長のスペイン王女キャサリンと婚約する。
 国を統一したスペイン女王イザベラが「おチビちゃん(ミ・ベケーニャ)」と読んで鍾愛した末娘である。
 スペイン王国もまた、アラゴンとカスティーリアという、2つの国が合併してできたばかりの新興国家だった。

 しかし、両国の利害は最初から対立した。ヘンリー7世は、スペインに対して、予想の四倍もの持参金15万クラウンをふっかけ、スペイン側は英国にフランスへの出兵を要請した。
 しかし両者の欲は外交努力によって曖昧なまま、婚約が先行された。
 1499年と1500年、二度に渡ってアーサー王子はキャサリンを妻にする、といって代理人を通しての仮結婚を行った。

 1501年10月2日、キャサリン王女がプリマス港に上陸した。
 花嫁行列は長引き、一ヶ月経ってもロンドンにつかなかった。痺れをきらしたヘンリー7世とアーサー王子は、ロンドンから40キロほど離れたドグマースフィールドまでお忍びで出かけていって、未来の花嫁と体面した。

 同年11月12日、ようやくキャサリン、ロンドンに到着。
 花嫁側の華麗なパレードは、ロンドン側の壮麗なページェントで出迎えられた。
 2日後、アーサーとキャサリンは聖ポール大聖堂で挙式をあげた。

 12月2日、アーサーは皇太子として、ウェールズのルドルー城へ向かった。
 新妻キャサリンも同行した。まだ一度も肉体関係のない、形ばかりの夫婦だった。
 翌年の3月、アーサーは急な発熱に取り憑かれる。もともと病弱だったアーサーは、生死の境を彷徨った。
 キャサリンも必死で看病に明け暮れたが、疲労と感染のために、倒れた。
 1502年4月2日、アーサーは高熱のために息を引き取った。
 悲しみの中、キャサリンだけは回復し、ロンドンに帰還した。
 アーサーとキャサリンが性的関係のない夫婦だったことは、その後、スペイン側が「形式的な結婚だった」として、残りの持参金の支払いを渋ったことからも推測できる。

 アーサーの死後は、実弟にあたるヘンリーが「ヘンリー8世」として父の跡を継ぎ、キャサリンはヘンリーに見初められ、王妃に迎えられる。しかしヘンリーが心変わりした時、キャサリンは「兄の妻だったから聖書の教えに反する」として、強制的に離婚されてしまう。
 未来の妻キャサリンが故国にいた頃、ラテン語で送った手紙に見られる優しさ、線の細い顔立ち・・・もし実弟のヘンリーではなく、アーサーが天寿を全うしていたら、王位についていたら、英国の歴史はどうなっていただろうか。


 

参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
イサベル女王の栄光と悲劇 小西章子 鎌倉書房

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