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若い頃のキャサリン・オブ・アラゴン王妃マイケル・シトー作/

ウィーン美術史博物館

 

16世紀バラード「黄金(きん)の薔薇の宝冠」      
その背景~1517年「魔のメイデー」とキャサリン・オブ・アラゴン王妃~



 この古民謡(バラード)は、16世紀初頭に起きた、実際の事件をベースにしたものである。

 ヘンリー8世の治世8年目のロンドンは、囲い込みによって土地を奪われた貧民と、海外の裕福な商人らの流入により、貧富の差が激しさを増していた。

 フランドルやドイツの職人たちが、英国人の職人から仕事を奪っている点も問題だった。
 ベネチアの商人は、英国の商品を海外で売買する特権で、富を得ていた。
 また、外国人が増えたことで、性犯罪も増加していた。失業問題、そして犯罪・・・・いつの時代でも、社会不安をまねく要因である。

 1517年5月1日。メイ・デーの祝日。
 この日は毎年野で花を摘み、遅い英国の春を謳歌する祭の日でもあった。
 しかし4月あたりから、通りでは外国人に対する襲撃事件が相次いだ。暴動を恐れたロンドン市長は、夜間外出禁止令を布いた。
 しかしメイデー当日の朝、恐れていた事態が起きてしまった。

 暴徒が外国人地区を焼き討ちし、牢獄を襲って捕らえられていた同胞たちを解放した。大法官だったトーマス・モアは、説得しようとしたが、投石を浴びて逃げ帰った。
「外国人を皆殺しにしろ!」の叫びとともに、群衆は次々と外国人の家を襲っては掠奪と暴行を繰り返した。

 ついにロンドン塔長官は、暴徒に向かって数発の大砲を撃ち込んだ。騒ぎは鎮まり、逮捕者の数は300人にものぼった、という。
 そこに宮廷から1300人の手勢を率いた、ノーフォーク公が到着。すぐに裁判が行われ、278人が被告として引きずり出された。
 翌日見せしめのために、13人が5ヶ所に分けた処刑場で、八つ裂きの刑に処せられた。一回絞首刑にして、死にかけたところを引きずり下ろし、改めて腹を割き、手足を切断するという、むごたらしい処刑だった。

 5月7日、残りの被告たちが手を縛られて、ウェストミンスター宮殿にいたヘンリー8世の前に引き出された。
 ロンドン市民の多くが嘆願の声を上げて、泣き叫んだ。見かねたウルジー枢機卿がヘンリー8世に恩赦を頼んだが、許されなかった。このまま行けば、全員があの13人と同じように、八つ裂きにされるはずだった。
 外に詰めかけた被告の家族たちの叫びが、中まで聞こえていた。

 その時、風向きが変わった。
 誰かが怒るヘンリーをなだめて、説得したのである。

 1980年代に入ってCP分析により、シェークスピアの真作とされた「トーマス・モア」では、モアがその人物だった、としている。 一方、かなりヘンリー8世よりの記録者であるエドワード・ホールの年代記によれば、誰とも特定されず、ヘンリー8世が1人で決めて赦免したことになっている。
 しかし、民衆の間で歌い継がれてきた古民謡(バラード)では、はっきりと1人の女性の名前をあげている。
 それはシェイクスピアの生きた女王エリザベスの時代でも、エドワード・ホールが生きたヘンリー8世治世末期でも、口にすることが憚られた、だが、国民は決して忘れることがなかった名前であった。

 バラード「黄金の薔薇の宝冠」副題「ヘンリー8世治下における魔の五月祭の話、魔と呼ばれる由来/ならびに キャサリン女王陛下がロンドンの二千の奉公人の命を乞われた次第」


「かつてわが国で起きた事件を、つぶさにお読み頂ければ、魔の五月祭なる名の由来を、正しく理解されましょう。
ヘンリー8世陛下は、令名並びないわが王国を統治されていたが、陛下は気高い女王をスペインからお迎えになり、長い年月ともに過ごされた。
(中略)通りという通りの溝には、外国人の死体から溢れる血が流れた。いまだ五体満足な者も、危機に瀕していた。
 奉公人が武器を持って蜂起したために、異国に生まれ育った者は、富める者も貧しき者も 老いも若きも、かれらの暴行を受けた。
    (中略)
 裁きを受けるために、かれらは首に縄をかけられ、2人一組に縛られ、まず市の西門をくぐり抜け、ストランド街を通り、ウェストミンスターへと向かった。かれらの通る全ての通りで、これまで聞いたことのない叫びが響いた。それは捕縛された愛するわが子を嘆く母親たちの叫び声だった。

 法廷は彼女たちの嘆き悲しむ声で、一発触発だった。
 すると女王陛下(キャサリン・オブ・アラゴン)は、深く母国スペインを悼んでおられたが、お気持ちを和らげて言われた。

「たしかにロンドンの大通りは、スペイン人の血で濡れました。しかし私はこの国の安泰のために、この若者たちをお許しいただきたいと存じます。さもなくば、世間は私のことを評して、キャサリン女王は無慈悲であった、私のために、これらの若者たちは不幸な目にあった、と申しましょう」

 こう言われると、豪華な上着を脱ぎ、髪をほどいて、陛下のもとへ行かれ、寛仁大度な陛下に、かれらの赦免を求められた。
 陛下がそれを拒否なさるわけがなかった。

 女王は言われた。

 「青く芽ぐむ蕾にもまごう若者たちの命を、どうか助けて下さいませ。この若者たちを時ならずに、墓に追いやらないで下さいませ。自然はこの者たちに、もっと長い命を与えております」

 女王陛下の目から、真珠のような涙がこぼれ落ちた。国王陛下は心優しい女王を励まして、言われた。

「妃よ、立ちなさい。余も寛い心から、この若者の命を救うことにする。何者も恩赦を妨げることはできない。妃よ、そなたの願いは叶った。この者たちは永らえて ブリンの戦で余に仕えるであろう」

 全員の命が救われるやいなや、歓喜の声が広間中に響きわたった。天から雷の落ちるがごとく、かれらの間に女王陛下を称賛する声が上がった。情け深い女王陛下はお喜びになり、かれらに感謝の意をのべられた。女王は雅やかにかれらの元を去られたが、それ以降、生涯国民の敬愛の的だった。(玉木意思大牢/松田道郎・共訳)」

「王妃は、罪を赦された者の母たちの感謝と賛美に
 心からのよろこびをもって耳を傾けた。
 母たちは生涯、王妃に敬愛を捧げつづけた。」
 (石井美樹子・訳)

 

参考資料/
サー・トーマス・モア
~幻のシェイクスピア戯曲~ 河出書房
薔薇の王冠 石井美樹子 朝日新聞社

 

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