メアリー・ステュアート/クルーエ作/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
 

Mary Stuart/ Queen of Scot
 スコットランド女王
メアリー・スチュアート(ステュアート)
 (1542ー1589)
    
                                   
 このあまりにも有名な女王は、輝かしい血統の持ち主、英国史上のサラブレッドだった。
 父のジェームス5世はスコットランドの正嫡の王、母メアリーは2人目の王妃とはいいながら、フランスの大名門ギーズ家の出身だった。
さらに父方の祖母マーガレットは英国王女だった。家柄の面からいえば、メアリーこそ英国とスコットランドの両国の女王にふさわしかった。しかし、メアリーの人生は、大伯父である英国王の裏切りと父の死という悲劇から始まった。

 1542年11月、前々からスコットランドを狙っていたヘンリー8世は、あらかじめ敵国内に賄賂をばらまいた後、おもむろに国境線を侵犯した。その上、迎え撃ったスコットランド王ジェームス5世は、味方の裏切りによって大敗した。 
 激しい失望に喘ぐ王のもとに、さらに失望ともいえる知らせがもたらされた。
 臨月を迎えていた王妃メアリー(誰もが王子誕生を願ってやまなかった)が、リンリスゴウ宮殿で無事王女を産んだ
というのである。もはや生きる気力を無くしていた王は、数日後、29歳の若さで息を引き取った。
 1542年12月14日、メアリーは生後6日で父を失ったのである。

 翌年の7月、メアリー王女は母メアリー皇太后に抱かれて、生後7ヶ月でエジンバラ郊外のスタリング城で、ひっそりと戴冠式をあげる。その直後、幼い女王を奪ってわが子エドワードの嫁にしようと企むヘンリー8世が、再び侵略して来た。 今回は防ぐ者もなく、首都エジンバラは英国兵の手で破壊され尽くした。
 追いつめられたメアリー皇太后は、娘を人目に付かない辺鄙な修道院に隠し、5歳まで育てた後、密かにフランスへと
落ち延びさせた。
 引き裂かれるようにスコットランドの海岸を離れる船に向かって皇太后は涙した。
 甲板では幼いメアリーが母を呼んで泣き叫んでいた。

 フランスで待っていたのは、形式的に婚約を交わしていた1歳年下のフランソワ皇太子と、その両親であるフランス国王夫妻だった。
 王妃のカトリーヌ・ド・メディチは 10人もの王子王女を生みながらも実権は夫の愛人であるディアンヌ・ド.ポワティエに握られていた。
 幸いにもカトリーヌは、メアリーを気に入って可愛がっていた。
 宮中にはメアリーの母方の叔父であるフランソワとシャルルのギーズ家の兄弟が権力をふるっていた。
 
 メアリーはカトリーヌや叔父たちに見守られてフランス人として成長し、1558年4月28日、パリのノートルダム寺院で華やかな結婚式をあげた。
 15歳になったばかりのメアリーは、宝石を散らした純白のドレスを身にまとい、歓呼の声の中、ノートルダム寺院へ
入場した。
 それから一年半後、フランス王アンリ2世は騎馬試合中の事故で急死。
 夫フランソワがフランソワ2世として即位した。
 ついにメアリーはブリテン島の一部を含む広大なフランス王国の女主人となったのである。
 そんなメアリーにとって、故国スコットランドは領土の一部に過ぎなかった。

 1543年生まれのフランソワは、まだ17歳。
 生まれつき虚弱な体質だった。アデノイドがあり、年中耳が腫れ、呼吸困難に陥るところを見ると、アレルギー患者で、
重度の喘息体質だったのかもしれない。
 もし真実喘息であるとするなら、成人に近い患者の発作は、現代でも死ぬ場合がある。
 そしてアレルギー患者は耳や鼻に炎症が起きやすい。
 1560年11月、フランソワは持病であった耳の化膿が悪化し、高熱を発するのと同時に呼吸困難に陥った。 
 18日間に及ぶメアリーの看護の甲斐もなく、その年の12月8日、ついに帰らぬ人となったのである。

「森や野や どこにいようとも
 明け方か夕暮れか いつだろうとも
 心は絶えず悲しみにくれ
 眠ろうとする枕元に押し寄せる この空しさ
 一人ベッドにいても、あの人のぬくもりを感じる
 働く時も休む時も、傍らにあの人を感じている。
(メアリー/亡き夫に捧げる挽歌)」

 同じ年の6月、故国の母メアリー皇太后も、娘の身を案じながら死去していた。
 周囲では、本人の意向を無視して、早々に再婚相手探しが始まった。
 メアリーは義弟で、王位を継いだシャルル9世の求婚を拒み、フランスでのんびり未亡人生活を送る気ままさも拒否する。
 そして、あの争いと嫉妬渦巻く荒廃した故国へ、スコットランドへ帰る道を選ぶのだった。

 その頃からメアリーは、自分の紋章に、英国王家の獅子紋を入れるようになる。
 この行為は明らかなエリザベスへの挑発行為だった。後世の人間は、それを見て「愚か」だと笑うけれど、果たして一笑に伏すことができるだろうか。

 思えば、英国側の拉致を恐れて、国内と転々と逃げ隠れした幼少時代だった。
 そして5歳の時、母と引き離され、逃げるようにフランスに渡った。
 祖父を、父を、屈辱のうちに死に追いやり、故国を踏みにじった英国。
 そんな憎き英国に対し、復讐心があったのではなかろうか。
 まして今の女王は、あの宿敵ヘンリー8世の庶子の娘エリザベスである。
 正当なチューダーの血を引くメアリーが王位を望んでも、不思議ではなかった。

 1561年、メアリーはスコットランドへ帰国する。
 メアリーは一応エリザベスに英国近海を通過する旨を知らせたが、エリザベスの側はそれをそっけなく無視した。
 7月20日、メアリーは英国側の悪意を知りながら、カレー港へと出発する。
「どのような結果になろうとも、私は旅立ちます。」
 約一月後の8月14日、ついにメアリーを乗せた船は港を離れた。
 甲板に立つメアリーは遥かに遠ざかる岸を眺めながら、激しく泣いた。
「アデュー、フランス!もう二度と見ることはないでしょう。」
 フランス語の「アデュー」は単なる「さようなら」ではない。
 決別を表す言葉である。メアリーは、第二の故郷であるフランスに二度と帰らない決意であった。

 ユーロスターでドーバー海峡を越え、南部英国に入ったとたん、それまでの清澄なフランスの陽光は消え、にわかにどんよりとした北国の空気に包まれる。
 21世紀でさえそうなのだから、ましてや16世紀、英国よりさらに北のスコットランドはフランスとの落差は大きかったはずである。5日の航海の後、メアリーが上陸したエジンバラ近郊のリース港は、霧の濃い裏ぶれた漁村だった。

 明らかな発展途上国。しかも狂信的なキリスト教原理主義者が跋扈し、隣国からの侵略行為と内部の権力闘争で疲れきったスコットランドは、どことなく現代の中央アフリカや中央アジア諸国を思わせる。
 そんな危険な場所へ、世間知らずのお姫様が復讐心に燃え飛び込んでいって万事が解決するとしたら、それはフィクションの世界だけである。
 現実にメアリーを待っていたのは、呵責の無い男同士の権力闘争と、ピューリタンの女性蔑視、英国側の悪意であった。

 しかし、鳴りもの入りで帰国したメアリーを待っていたのは、奇妙な「平和」だった。

 実権はすべてメアリーの異母兄のマリ伯爵ジェームス・スチュワートが握っていた。
 彼は父のジェームス5世が政略上やむおえない理由でフランスから王妃を迎えるために、別れた恋人/アースキン家の姫君との間に産まれた子であった。
 そして王妃のメアリー・ド・ギーズも、政略のために幼い息子を置いて異国へ嫁いで来た身であった。
 思えば、悲しい運命のカップルだった。したがって、メアリーもその母親も、マリ伯を差別していなかった。

 しかしマリ伯爵は違っていた。
(メアリーとその母親さえいなければ・・・父が母と正式に結婚していれば俺が国王になれたはずなのだ。)
 その思いが常に黒い淀みとなって胸中に眠っていた。
 そうとも知らず、メアリーは政治を兄にまかせ、自身は「象徴女王」として敬われつつ、ゴルフだ賭け事だと遊びほうけていた。英国のエリザベスの向ける敵意も、まだ表面化することもなく、のどかに「お姉様」「妹よ」などど、社交辞令の並んだ文通が続いていた。

            

                               
 そうこうしているうちに、メアリーの周辺には無気味な事件が起きはじめる。
 メアリーと関わった男はことごとく破滅するという宿命の始まりだった。

 フランス人詩人のシャトラールは、戯れにメアリーがキスをして以来 ストーカーとなり、二度までも寝室に忍び込んで
犯そうとしたため、メアリーの目の前で斬り殺された。
 アラン伯爵はメアリーと結婚するという妄想に取り付かれて発狂し、生涯幽閉されて終わった。

「そろそろ身を固めたらどうですか?」
 マリ伯は、それとなく探りを入れてみた。マリ伯にしてみれば、異母妹がさっさと遠くに嫁いでくれれば厄介払いになる。
 メアリー自身はスペイン皇太子との再婚話に少々乗り気であったが、それを聞き付けたエリザベスが、ただちに介入した。
 「英国との友好が保ちたければ、英国貴族から夫を選びなさい。」
 そして自分の愛人であるロバート・ダッドリーとの縁談を持ちかけた。
 エリザベスにしてみれば、メアリーを臣従させることができるのと同時に、長年連れ添いながらも、ついに報いることが
できなかったダッドリーを「女王の夫」にしてやることができる良い機会であった。 
 しかし、メアリーはきっぱりと拒絶した。そのかわり、従兄弟にあたる4歳年下のやんちゃな青年を再婚相手に選んだ。


(あのヘンリー・ダーンリーとか?)
 エリザベスはその知らせを聞いて眉をしかめた。ダーンリーは軽薄な青年であったが、メアリーの従兄弟に当たり、英国の王位継承権を持っている。
(なんと!これでますますあの女がつけあがるではないか!)
 英国王位を窺う敵が、一人から二人に増えてしまったのだ。

 ダーンリ-が「逆玉」狙いでメアリーを誘惑したのは見え見えだったので、議会や国民、側近達ですら、この結婚に反対した。特にマリ伯は、嫉妬もあって口論になるほど激しく反対した。
 エリザベスは、ダーンリーと結婚するなら国境線を侵犯する、と脅迫した。
 それでもメアリーは、この青年のわざとらしい誘惑やわがままが、愛らしくてならなかった。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリーと結婚する。
 そして書類には、「女王メアリー」の名の横に「国王ヘンリー」と署名が並ぶこととなった。
 (してやったり!)
 ほくそ笑むダーンリーとは対照的に、マリ伯の怒りはおさまらず、結婚式にさえ姿を見せなかった。
それどころか、英国からの支援を受け、クーデターを起こしたのである。しかしあっという間に蹴散らされ、マリ伯は英国へと亡命した。

(目障りだったマリ伯を追い出した。これで俺の天下だ!)
とばかり、ダーンリーのわがままは加速した。気に入らなければ大貴族だって殴る、剣を振り回す、政治を放ったらかしにして遊び回る、泥酔して暴れる。 殴り合い、絶叫、レイプのような夫婦生活。
 二人の関係はわずか半年で破滅を迎えた。にもかかわらず、メアリーは妊娠していた。最悪だった。

「もう近寄らないで!触らないでちょうだい!」
「なんでだよ。俺はおまえの亭主だぞ?この国の王なんだぞ?。」
 酒臭い息を吐きながら、ダーンリーはメアリーを押し倒した。
「私、妊娠しているのよ。」
 メアリーは顔をそむけながら呟いた。
「どうせ俺の子じゃないんだろ?誰の子なんだよ、おい。」
 アル中でいかれたダーンリーの頭には、メアリーのお腹の子が側近リッチオの子のような気がしてならない、
 いや、真実自分の子だったとしても、息子ならライバルになりうる。
(みんな殺してやる!)

 妄想は妄想だけでは留まらなかった。ある晩餐会の席上、呼ばれていなかったダーンリーは、側近を引き連れて乱入する。
 マリ伯にそそのかされた大貴族たちに煽られた結果であった。
 ダーンリーはメアリーの目の前でリッチオを惨殺し、ついでに 妻にまで銃口を向けさせたのだ。
 だが、メアリーはもう取り乱さなかった。二人きりになった時、メアリーはそっと夫に手を差しのべる。
 「鎮まってちょうだい、お願い・・・あなたはだまされているのよ。
  私とお腹の子供を殺して、その後あなたも無事で済むと思っているの?」
 実際仲間と称する大貴族たちは、マリ伯とともに権力を奪取するつもりでダーンリーを利用しただけなのだ。
 彼がメアリーを始末すれば、今度は、彼が消されるだろう。

 さっそく勝利にほくそ笑むマリ伯が帰って来た。
 メアリーは異母兄の前で、大げさに苦しんで今にも流産すると騒いだ。
 周囲が混乱する中、メアリーはどさくさに紛れて、ダーンリーともどもホーリールード宮殿を脱出、身重の身で50キロの道を馬で疾走した。

 

 それから三か月後の1566年6月19日、メアリーはエジンバラで出産した。
 「俺の子じゃない」とわめいていたダーンリーそっくりの男の子だった。
 後の英国&スコットランド国王、スチュアート王朝開祖のジェームス1世である。
 メアリーは可愛いわが子に頬ずりしながら、ベッドの傍らに立つダーンリーにむかって言った。
「あの時あなたが私を撃っていた・・・・・・ 今頃あなたはどうなっていたかしら。」
 ダーンリーは俯いて口ごもった。
「おまえ・・・・・おまえが俺に冷たくしたからだ、俺は悪くない!。」
 そして彼はメアリーの悪口を書いた手紙を諸国に送りつけ、わが子の洗礼式の出席をも拒んだ。

 子供が産まれたことで、一見平和が訪れたかに見えたが、それは一瞬のことだった。
 やがてメアリーの生涯最大の悲劇が訪れたのだった。「ダーンリーの暗殺」である。

 1567年2月10日の深夜。ダーンリーは、病気療養のため、自分の領地であったグラスゴーにいた。しかし別居中だったメアリーの説得により、その世話を 受けるだめにエジンバラに戻って来ていた。そしてメアリーが宮殿へ帰った直後、ダーンリーの寝起きしていた館が何者かによって爆破されたのだった。

 この事件にメアリーが首謀者として関わっていたかどうか、諸説あってはっきりしない。
 メアリーが暗殺に加担した「証拠」といわれるものも存在したが、でっち上げの偽物だった可能性も高い。

 私は個人的には、メアリーは無実であったと思う。マリ伯を含めた大貴族たちにとって、すでに王子が生まれ、摂政として実権が握れるチャンスが巡って来た以上、メアリー夫妻は用済な上に邪魔者だった。
 二人とも、抹殺しようと考えても不自然ではない。

 その陰謀の中心はおそらくマリ伯とボスウェル伯ジェームス・ヘップバーンであったが、直前になって、ボスウェルはメアリーだけは生かす気になった。密かに知らせを受けたメアリーは、自分だけでも助かりたい一心で逃げ出した。
 そして哀れにも、ダーンリー1人がテロの犠牲になったのだ。

 実はダーンリーは爆発では死ななかった。ガウン一枚で飛び出した彼は、作戦の失敗を知った暗殺者の手で、改めて絞殺されたのである。

 知らせを受けたエリザベスは、あれほど怒っていたにもかかわらず、メアリーにあてて、「すぐに自分が疑われないよう犯人を検挙して、身の潔白を証明しなさい」という忠告の手紙を送っている。そこで形だけ詮議が行われ、ボスウェル伯が怪しいとなったわけだが、何しろほとんどの大貴族が加担している暗殺事件である。
 事態はうやむやのまま流されてしまった。

 しかも悪いことに、ボスウェルは命を助けてやったことを恩に着せ、メアリーを誘惑し、レイプしてしまった。
 メアリーは泣く泣く身を任せたが、しばらくしてこの男に本気で惚れてしまったのである。
 ジェームスの誕生から、まだ一年もたっていなかった。

 ボスウェルはメアリーと関係してから、暴走し始めた。
 同じ年の5月13日、彼は陰謀を目論んだ仲間を裏切ってメアリーと結婚する。この行為に、始めは同情的だった諸国も目を
白黒させ、次に激しくメアリーを非難した。
 裏切られた大貴族達は、ダーンリー暗殺の責任を全てボスウェル一人に押し付けて、「王殺しの反逆者」として討伐のため挙兵した。

 メアリーも対抗するために軍を収拾したが、呆れ返った人々はメアリーから離れていった。
 状況は圧倒的に不利だった。ボスウェルはいち早く単身北へ落ち延びた。
 メアリーは本拠地のボスウィック城に立て籠ったが包囲され、男装をして脱出し、ボスウェルの後を追った。
 二人が再会した時、破滅が訪れた。

 徹底的な敗北だった。一時はメアリーを抹殺しようとして、ボスウェルの裏切りによって挫折したマリ伯であったが、ふたを開けてみると、自分の手を汚す必要はなかった。
 メアリーは勝手に破滅してくれた。しかも自分も加担したダーンリー暗殺の罪を、ボスウェル一人に押し付けて。

 そしてメアリーは湖の孤島ロッフレベン城に幽閉されて一月後の7月25日、ついに王位を幼いジェームス王子に譲るとの書類と、マリ伯の摂政任命の書類にサインしたのである。
 ボスウェルの人生もまた終わっていた。彼は追われてデンマークまで逃げ、そこで幽閉されて、狂死したという。
                

​ メアリーは最後のチャンスに賭けた。
 数カ月かけて脱出作戦を練った後、ついに1568年5月2日、ロッフェレベンの城を脱出し、ニドリー城まで落ち延びたのだ。

 メアリーは復位のために挙兵した。
 意外にも、メアリーを裏切った大貴族達が、続々と馳せ参じて来て、一大大軍となった。

 この一年で形勢は変わっていた。
 マリ伯の権力に嫉妬した大貴族達が、今度はマリ伯を引きずりおろすために集結したのである。
 これが最後のチャンスだったにもかかわらず、またしても裏切り者が出た。主力部隊だったアーガイル伯が、意図的に遅く到着したのだった。主力を欠いた軍 は、マリ伯側の奇襲を受けて、またたく間に敗走した。その上裏切りに怒った他の部隊が、アーガイル伯軍に襲いかかった。メアリーは自ら戦場に飛び込んで呼 びかけても無駄だった。惨めなまでに、メアリー側は戦死者が続出した。
 ここまでは、メアリーを理解できるし、共感することもできる。
 この後の行動が、何とも理解しかねるところである。

 正常な神経なら、メアリーは恥を忍んでフランスへ帰り、そこでフランス側を説得して(ついでにスペインも味方に率いれて)マリ伯討伐軍を組織していただろうし、それは成功の確率が高かったに違いない。

 しかしメアリーは自分を「エリザベス以下のひどい女」と罵倒したバチカンのことが忘れられなかったし、自分を罵倒した
フランス王室への怨みを忘れていなかった。そんな時、エリザベスだけが、メアリーに忠告し励ましてくれた。
 その上独身のエリザベスは、いずれメアリーか、ジェームスのどちらかを跡継ぎに指名せざるをえないだろう。
「英国へ行きましょう!」
 メアリーはそう叫んで、英国ースコットランド国境線を越えた。

 この時点でメアリーの人生は終わっていたのである。
 わずか26歳の若さであった。

 たとえばメアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベスを頼って来たのなら、まだいい。
 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。
 「女は悪魔だ」と男尊女卑をかかげるキリスト教原理主義者に思い知らせ、階級制度と女王という存在の正当性を確立するためにも、メアリーの復活は必要であった。
 生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない、とエリザベスは思う。
 マリ伯の方も負けてはいない。大貴族たちと結束して、もしメアリーの復位を図るなら、フランス側につく、と脅して来た。

 君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。
反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。
 女であるが故に耐えねばならなかった悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。
 彼女自身も即位したての頃、群臣たちの「女か・・」という嘲笑の視線を忘れていない。

 だが、メアリーはここに来て、忘れていた怨みを~メアリーが故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを~
思い出したのである。
 そしてスペイン・フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙を
ばらまいていたのだ。エリザベスの足下で。
 以降20年、メアリーはもはや列挙するのがうざったらしいほど、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込むことになる。

 当然全部筒抜けである。メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しだった。

    
    
 メアリーがエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。
 メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。
 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。
1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
3、ジェームスを次期英国王として、エリザベスに養育させる
3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと

 しかし、にもかかわらず、どたんばの所でエリザベスはメアリーを裏切った。
 というか、そうせざるおえない苦境に陥ったのである。
 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。
 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。
 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。
 1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。

 そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。
スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。

 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。

「メアリーをこの手で、殺さねばならない」

 考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。
 この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したいう。しかし決断した。
 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。

 メアリーにも希望は残されていた。ただ「待てば」よかったのだ。
 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。
 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。
 だが、メアリーは待てなかった。

 1587年2月1日、エリザベスはついに処刑命令書にサインする。
その一週間後、メアリーは幽閉先のフォザリンゲー城で最期の時を迎えた。
 19年のおよぶ歳月が、メアリーからかつての美貌を奪っていた。中年太りで崩れた体を深紅のドレスで包み、白髪を金髪のカツラで隠していた。処刑台の前には、数百人の見物人が押し掛けていた。
 かれらの前で、メアリーは舞台に立つ女優のように軽やかに足を進めた。

 そして処刑人の斧によって首をめった斬りにされ、呻き声をあげ血まみれになって絶命する。
 首を失った体のスカートの下からは、生前可愛がっていたペットの小犬が飛び出してきたという。

 メアリーとエリザベス。この二人を同一線上に並べて評価を下すのは誤りであろう。なぜなら、二人はまるで役割が異なっていたからである。メアリーは国母であり、象徴君主の立場にいたのに対して、エリザベスは純粋な政治家であった。
 メアリーは子孫を残し、エリザベスは絶大なる政治的功績を残した。
 どちらが欠けていても、その後の大英帝国の発展は無かったであろう。

                     

       


     参考資料/
華麗なる二人の女王の闘い 小西章子 朝日文庫
ルネサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社
女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
スコットランドの歴史 リチャード・キレーン 彩流社 


 

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