2、メアリー・ブーリン
 Mary/Boleyn
(1502or8?~1543)

 

メアリー・ブーリン/ホルバイン作

                   

 メアリー・ブーリン家系図
「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)

 メアリー・ブーリンは、チューダー王朝前半を代表する美女といっても過言ではない。
 バランスの取れたふっくらした顔、青い瞳、明るいブロンド。どれを取っても、当時の美意識に合っていた。
 姉妹のアン・ブーリンの冴えない容姿とは対照的であった。

 実は女王エリザベスの母として有名であるにも関わらず、アン・ブーリンの出生年ははっきりしていない。1501年という説もあれば、1507年という説も ある。最近ではアンの1507年出生説が有力なので、その姉妹のメアリーは当然それより遅い、1508年以降または以前出生という事になる。(一般的には メアリーが姉とされているが、妹という説もある)
 2人の兄であるジョージは1503年生まれなので、それ以前ではありえない事になるが、いずれにしても諸説あって、未だに確定していない。
 出生年が不明なのは、それだけブーリン一家が些末な貴族だったことの現れではなかろうか。

 ともあれ、当時一家は居城であるヒーヴァー城に住んでいた。
 メアリーとアンの姉妹はそこで生まれ、育った。1512年父のトーマスが在フランス大使に任命されたため、姉妹もまた父についてフランスへ赴いた。
 ここでまた、ブーリン家について謎が生まれてくる。なぜかフランスで、ブルゴーニュ公女マルグレーテのお側付き女官として、部屋までもらったのはメアリー ではなく、アンだったのである。

 研究家も「こういった場合は、姉が優先されるのが一般的である」といっている。
 英国史研究家の石井美樹子氏は、著書「薔薇の冠」の中で、「メアリーがフランス王妃に嫌われたからではないか」と疑問を呈している。

 しかし、実を言うと、これには妥当といえる理由があった。
 父トーマスは、1520年、メアリーをウィリアム・キャリーなる24歳の青年に嫁がせてしまったので、独身でフリーの娘はアンだけだったのである。

 もともとブーリン家は13世紀まで小作農の家柄であったが、結婚によって領地を増やし、トーマスの父の代で、36もの領地を持つ伯爵家の相続人を妻に迎 え、格段の飛躍を遂げていた。ウィリアム・キャリーは、高位の貴族ではなかったものの、英国王ヘンリー8世の遠縁であり、側近でもあった。
 花嫁のメアリー12歳。新郎キャリーは24歳。英国では、珍しくもない政略結婚である。
 あのヘンリー7世の母、マーガレット・ボーフォートも12歳で嫁ぎ、翌年には身ごもり、夫が戦死したと同じ年、わずか14歳でヘンリー7世を産んでいる。

 2人の結婚式は、父トーマスが帰国するわずか前に行われた。
 その4年後、夫妻の間には長女キャサリンが生まれた。
 翌年、ウルジー枢機卿の邸宅/ヨーク・ハウスのパーティーでは、メアリーは妹のアンとともに、深紅のドレスに宝石を飾った白いヘッドドレス姿で、華やかに参加した。
 いつ頃、ヘンリー8世がメアリーに目を付けたのかは定かではない。あるいは、夫のウィリアムとの間で、何らかの取引があったのかもしれない。

 1525年、メアリーが「ヘンリー」という、ヘンリー8世によく似た男の子を出産する直前、国王から領地を与えられている。しかし、愛人エリザベス・ブラントとの間にできたヘンリー・フィッツロイが国王の庶子として認知され、リッチモンド公の称号が与えられたのに較べて、認知はされなかったようだ。
 というのも、その頃ヘンリーは、アン・ブーリンとの結婚を画策していたからである。
 アンと結婚しようと思っているのに、人妻のメアリーに子供を産ませた事実が公になっては困るからだ。

 このメアリーの生んだヘンリー8世の息子「ヘンリー」は、後にエリザベス1世の代になって、ハンスドン卿として高位につく事となる。

 

 1528年、ウィリアム・キャリーが亡くなり、メアリーは未亡人となった。
 メアリーはすでにヘンリーの愛人として権勢を持っていたアンに、亡夫の姉エリノア・キャリーを聖イーディス修道院長に就任させてくれるよう頼んだ。
 と同時に、国王の庶子である息子ヘンリーを、アンを後見人として育てて欲しいと願い出ている。こうした事実からも、メアリーが夫の出世のために、あえてヘンリー8世の求めのままに身を任せたのではないか、と推測する事ができる。

 アンは姉メアリーに嫉妬した。昔と違って、美貌の姉は今や独身だった。 アンはさかんにヘンリーに向かって、姉の悪口を書き連ねた手紙を送った。
 1534年、メアリーはハンフリー・スタッフォードという、国王付き兵士だった男と再婚した。今度こそ、誰に命令されたわけでも、取引でもない、メアリー自身の意志であった。
 しかし、独身のメアリーを政略結婚させるつもりであったブーリン一族は怒った。とりわけすでに王妃になっていたアンは、「平民の義兄」など受け入れるはずもなく、メアリーともども宮中から追い出した。

 しかしそのお陰で、ブーリン一族が根こそぎ没落した不幸に巻き込まれる恐れから逃れた。
 アンが王妃となる代わりに恋人との結婚を諦め、最後には処刑されたのとは対照的に、メアリーは貧しいながらも慎ましく、愛を全うした。
「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened.
 My husband would not forsake me!"」
(聖別された偉大な王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。
 夫は私を見捨てたりはしません。」
 この言葉は、アンの人生と比較してみると、非常に皮肉に響く。

 最初の夫との間に生まれた長女キャサリンは、ヘンリー8世の第4王妃クレーフェのアンに侍女として仕え、やがてノウルズ卿に嫁ぎ、祖母の美貌を受け継いだ美女レティス・ノウルズが誕生した。
 この家系からは、名門エセックス伯家が出て、レティスの孫娘フランシスが大名門サマーセット公家に嫁いだことから、21世紀の現代にまで、メアリーの血筋は受け継がれたのである。
 アンの血筋がエリザベスの代で途絶えたのとは、対照的である。

       

       参考資料/
Tudor Bastard by Heather Hobden
The Tudor place by Jorge H. Castelli
The Tudor History by Marilee Mongello
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社