家系図

 人物一覧

 もともとハワード家はフランス・ノルマンディーのパッシー伯爵家から分家した一族だった。
エドワード1世の時代、ウィリアム・ハワードは裁判官を務め、その孫ジョンは、エドワード3世の提督として、対スコットランド戦と100年戦争で指揮を取った。
 二代後のロバートは、初のノーフォーク公女マーガレット・モーブレーを妻に迎えた。
 この逆玉の輿で、ロバートは「ノーフォークの乗り手(Jocky of Norfolk)」とあだ名がついたという。

 

 ジョンはロバート・ハワードとマーガレット・モーブレー夫妻の長男として、1420年生まれた。
 最初に記録に現れるのは、1451年、ライル卿の指揮下で、フランスのギュイエンヌ戦線に出陣した時だった。
 時に薔薇戦争直前だった。ジョン・ハワードはヨーク側についた。
 1461年、エドワード4世の即位にあたり、コルチェスター城主とノーフォーク、サフォーク両州の保安官の地位と、ガーター・ナイトの称号を授けられた。

 1470年10月、ランカスター側に破れたエドワード4世がフランスに亡命し、ヘンリー6世が復位すると、ハワード家は男爵の地位に格下げされる。しかし翌年エドワード4世が逆襲に出て、王位を奪い返すと、ジョンはいち早く馳せ参じた。
 その後もエドワードの忠臣としてフランス戦線に赴き、1478年のアミアン休戦条約に際しては、人質として現地に残った。
 帰国したジョンは、褒美としてサフォークの邸宅とオックスフォードの領地が与えられた。

 彼はどこまでもヨーク家の忠臣だった。エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドビル一族の専横を快く思わず、リチャード3世の即位を助けた。1483年5月、リチャード3世は、ジョンを国王付き顧問に任命した。
 1ヶ月後、ついにジョンは念願のノーフォーク公位を賜った。
 薔薇戦争はまだ続いていた。ウェールズの方角から、戦雲が近づきつつあった。
 敵・リッチモンド公ヘンリーがウェールズに上陸しようとしている、との知らせが届いた。
 ジョンは祖父と母の城であった、フラムリンガム城を改修し終えた直後だった。
 かつてこの城の主だった祖父も叔父も、彼が物心つく前に、ヘンリー5世の命で処刑されていた。
 ランカスター家が憎かった。

 運命の1485年8月22日。ヨーク軍は王位を窺うリッチモンド公ヘンリー(ヘンリー7世)の軍勢と対峙した。
 多くが寝返る中、ジョンは最後まで忠実に戦って、主君リチャード3世ともども戦場に倒れた。
 勝利者ヘンリー7世の報復が始まった。
 ハワード家は公爵位はもちろん、私権までも奪われ、反逆者の烙印を押されたのである。
 寝返って勝者となった者たちは、こう言ってジョンを嗤った。
「ノーフォークに乗った男はそれ以上大胆にはなれなかったのさ!(Jockey of Norfolk be not too bold)」

               

参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
Whos Who in Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
サウスヨークシャーRotherham公式サイト