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地下鉄タワー・グリーン駅を出てみると、『それ』は見えた。
ケント産の石灰岩で覆われた灰色の、頑丈な外壁。
窓はほとんどなく、東西南北に一つづつそびえ立つ塔の屋上には、ユニオン・ジャックの旗が翻っている。
かつてはテームズ川の水を湛えていただろう外堀も、今は一面草で覆われ、近くの住人が犬を散歩させていた。


タワー・オブ・ロンドン。
この英国を象徴する建物群は、不思議な存在でもあった。
11世紀、要塞として建てられながら、王や女王の戴冠前に滞在する宮殿であり、時にはヘンリー7世の妻
エリザベス・オブ・ヨークのように王妃の産室として使われたかと思うと、高貴な罪人を閉じこめるための
監獄でもあった。
戴冠式のパレードはロンドン塔から始まるが、裏側には、皆が恐れた『反逆者の門』があった。
水路を船で下ってきた罪人は、ここからロンドン塔内に入った。

もともとロンドン塔は、英国を占領したノルマン人の王ウィリアム1世が、現地人を威圧するために作った要塞であった。
まず最初に核として作られたのが、ホワイト・タワーだった。
1241年、塔は、白漆喰で塗られていたが、今ではすべてはげ落ちている。
ただ『ホワイト・タワー』という名前のみに、かつて白かった事実を残しているのみである。

ウィリアム1世の時代から遡ること、約1100年前、この地はローマ帝国の植民地ブリタニアの中心都市・ロンディニウムだった。その語源は現地ケルト語のLondo(荒れ果てた地)である。
ロンドンの名称も、そこから来ている。
当時街は厚さ2・4メートル、高さ6メートル、長さ4・8キロメートルの城壁で囲まれていた。
市の東南部、テームズ川にかかる橋を見下ろす場所には、川を監視するための3つの砦が立っていた。
ジュリアス・シーザーは、特に東側の砦を好んだという。
しかしAD61年、イケニ族の女王ブーディカ率いるケルト反乱軍が襲撃、砦内のローマ人をことごとく惨殺し、砦は跡形もなく焼け落ちてしまった。

時を経ても、その場所が軍事的に重要な地点であることに変わりはなかった。
ウィリアム1世が目をつけたのも、ロンドン市とテームズ川を監視するには相応しい場所だったせいである。

ウィリアム1世は、英国支配のために全国に要塞を作った。
テームズ川の畔にも、支流のフリート川との合流地点に建てられたモンフィシェとベイナードの2城があったが、いずれも木造の簡単な作りであり、都市を制圧するためのより頑丈な要塞が求められていた。

第一期工事は1078年に終わったが、1091年、暴風雨のため損壊したので、さらに修理拡張された。
工事はウィリアム1世、ウィリアム2世、ヘンリー1世の三代に渡って続いた。
後にプランタジュネット王朝に入り、関門、防壁、櫓などが付け足された。

塔は白かったが、外壁はローマ風の赤煉瓦で覆われていた。その赤い壁が落日に照らされる有様は、『野獣の血で練った漆喰で固めたかのよう』だったと伝えられている。

ここが要塞と同時に宮殿として使われるようになったのは、スティーブン王の時代だった。
1140年、スティーブンはここで盛大にハロウィンを祝ったという。

12世紀まで、ロンドン塔を取り囲む人家のほとんどは木造であった。
1189年、耐火のために、家は石造り、屋根は瓦葺きで作るよう命令が出されているが、安価なためか、17世紀に入るまで、木造家屋が主流だった。

ロンドン塔からやや上流にあるロンドン橋もまた、最初は木造であった。
石造りの本格的な大橋が完成したのは、1209年のことである。
この他、1135年、木造だったために焼け落ちたセント・ポール寺院もまた、石造りとなって再建されている。

中世のロンドン塔は、石ばかりの殺風景ではなかったらしい。
今はがらんとして見える中庭には、馬小屋が並び、テントが張られ、塔で働く従僕達のための小屋も建ち並んでいた。
外からは魚屋や肉屋、パン屋などが商品を納めるために出入りした。
また野菜や薬草などを栽培する畑もあった。
渡り廊下には風よけのための極彩色のカーテンもつり下げられていた。
ロンドン塔を出て、ローマ時代の城壁を出てしまうと、人家は途絶えてしまう。
ロンドンが城壁の外にまで拡張していくのは16世紀以降のことだった。
                 
ロンドン塔の入口に立つと、タワー・ブリッジが間近に見える。
この橋の起源はAD1世紀、ローマのクラウディウス帝により作られた。
それから約1000年後1014年、ウェセックス王国のエゼルレッド王が、バイキングとの戦いの最中、敵の進路を断つために、この橋を落とした。
『ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた』という有名な童謡は、この時の戦闘を歌ったものと言われている。
やがてバイキングの撤退により、橋はまた再建されるが、1212年、川のパレードを見に押し掛けた群衆を乗せたまま、橋の両側で火事が起きた。

逃げ場を失った人々が右往左往しているうちに、木造の橋は焼け落ちた。
水に落ちた人々が救援の船に殺到したため、次々と船が転覆し、3000人もの
死傷者が出た。これを教訓にして、橋は木製ではなく、石造で再建されたのだった。

ロンドン橋の南側は、ロンドン塔の入口に通じている。
『反逆者の門(トレーターズ・ゲート)』という。かつては反逆者の門に面する橋の入口には門があり、その屋上には、ロンドン塔内で処刑された罪人の首が何十個も晒されていた。
生首は保存のためにコールタールを塗られた後、槍の先に刺して放置された。

ロンドン塔が高貴な人の監獄として使われたのは、1100年スコットランド王フランバードが最初であった。
その後も何人かのスコットランド王が囚われ、100年戦争が始まると、フランス王やオルレアン公などが監禁
されたという。
また、王位を剥奪された元の国王・・リチャード2世や、エドワード5世もここに閉じこめられた後、暗殺されている。

しかしこの塔で一気に処刑者が増えるのは、ヘンリー8世の時代だろう。
1535年にはトーマス・モア、1536年には第2王妃アン・ブーリン、1540年には王の寵臣クロムウェル、その翌年にはソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットに第5王妃キャサリン・ハワード・といった具合で、毎年のように処刑が行われた。
王妃は戴冠式の前に、クイーンズ・ハウスという塔内の館に滞在するが、処刑を待つ間も同じクイーンズ・ハウスに監禁されていた。
館の正面は処刑場のタワー・グリーン、その向かいが遺体を葬るための聖ピーター・アドビンキュラ教会である。
教会の内部は、プロテスタントだけあって、実に質素で飾り気がない。

処刑された者のうち、もっとも悲惨だったのは、ソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットだった。
マーガレットは前王朝ヨーク家の生き残りで、エドワード4世の姪にあたる。(王弟クラレンス公ジョージの娘)
ヘンリー8世は、ある日突然伯爵夫人を処刑する
よう命じた。
驚愕した伯爵夫人は処刑台の上で執行人を突き飛ばし、飛び下りて脱出しようとした。
しかし捕らえられ、暴れ回るのを、めった斬りにされて殺されたという。

20世紀に入ってもなお、ここでの処刑は続けられた。
1914年、第一次大戦中、ドイツ側のスパイとして、ロディという人物が銃殺された。
第二次大戦中にはナチス・ドイツの宣伝大臣ルドルフ・ヘスが監禁されている。

またロンドン塔は、なぜかロンドンの最初の動物園でもあった。
象、ライオン、ヒョウ、北極熊などがいた。北極熊は長いチェーンがつけられていて、テームズ川から魚をとることもできたらしい。
16世紀から17世紀にかけて、『熊いじめ』という野蛮な見せ物が流行した。
熊に猟犬やライオンをけしかけて、戦わせるというものだった。
ジェームス1世は特にそれを好み、ロンドン塔内で熊とライオンを戦わせては、喜んでいた。

ロンドン塔の地下では、トンネルで『タイガータバーン』というパブと繋がっているという。
そのパブには、昔から猫のミイラが保存されている。
伝説によれば、その猫は、即位前のエリザベス1世が塔内に監禁されている時、イライラして壁に叩きつけて殺してしまった猫だという。いくら何でもひどい話だと思う。

かつては外壁を取り囲んでいた幅30メートルの壕は、1843年、ヴィクトリア女王の命令で水を抜かれ、牡蠣の殻を使って5メートルもの厚さに埋め立てられている。
今はすっかり緑地と化した元壕跡の前に立つと、近所のおじさんと犬が走り回っている情景が見えた。

 

参考資料/
ランドマーク世界史/ロンドン塔 講談社
テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社
ロンドン~ある都市の伝記~ヒバート著 朝日新聞社

 

暗き塔の物語~ ロンドン塔とロンドンの歴史

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