ノルマンとは、「ノルマンディー人」という意味の他に、「北の人」という含みもある。
 9世紀、ヴァイキングはセーヌを遡り、パリさえ攻略しようとするほどの勢いであった。
 幸か不幸かパリは陥落しなかったが、その一部がノルマンディーに住み着いて、ノルマン人の祖先になったのである。
                        
 ブリタニアを英国人の手に取り戻したエドワード1世にとって、ノルマン人は母方の里だった。これが新たな不幸の火種となる。エドワード亡き後、その母方の又従兄弟にあたるウィリアムが強引に英国王位を主張したのだ。

 彼はサセックスの浜に上陸するなり、ぶざまにも転倒してしまった。
「上陸するなり転ぶなど、なんと不吉な・・」と眉をしかめる家臣らにむかって、砂を掴み、「何が不吉なものか!見ろ、両手で英国の土地を掴んでやったぞ!」と、のたもうたという。

 ウィリアムは王位につくなり、逆らう英国人をことごとく殺戮して、政権を安定させていく。
 自分をおびやかす、先王エドワードの親類は目障りな存在だった。
 命を狙われた王子エドガーは、妹のマーガレットを連れて亡命すべく、大陸に向けて船出した。
                        
 その頃、スコットランドでは・・・・・ある日海岸に難破船が漂着した。
 知らせを聞いたスコットランド王マルカム3世は、ただちに救助を命じた。
 船の主は、気品ある若者と美しい姫君だった。名をエドガーとマーガレット。
 聞けば、イングランドの王子と王女で、ノルマン人に国を追われて逃げる途上であるという。
(そんな事情があるのなら、ぜひ我が国に留まるがよろしい。)
 そういって王は2人を賓客としてもてなした。
 やがてマーガレットは、マルカム王に見初められ、王妃になった。

 しかし1093年、王が亡くなると、たちまちスコットランドは王位をめぐる内乱に巻き込まれた。
 マーガレットとその娘マチルダは、皮肉にも英国に亡命せざるをえなくなった。

                        
 話は少しそれるが、このマルカム3世、あの有名なシェークスピアの「マクベス」を倒して王位についた人物である。

 スコットランドはローマ時代からピクト人の国として、カレドニアと呼ばれてきたが、9世紀にヴァイキングの侵攻により、ピクト人勢力が弱まり、かわってスコット人が勢力を伸ばした。そのため、スコット人の国を意味する「スコットランド」と呼ばれるようになったのである。

 ノルマン王朝の英国に戻ろう。
 ノルマン人が国を治めるということは、すなわちフランス人に国を乗っ取られたも同然だった。
 かれらはヴァイキングの子孫とはいえ、とっくの昔にスカンジナビアの風習・言語を捨てフランス人と化していたからである。 これ以降12世紀末まで、貴族の言葉といえばフランス語であり、英語は卑しいものと見なされた。
 現在に至るフランスと英国の確執ともいえるライバル意識は、11世紀のこの時代に始まるのだ。

 ノルマンディーは、その後も英国とは(距離的に近いせいもあって)縁の深い土地となる。

 18世紀に、こんなエピソードがある。
 長い間英語を見下してきたフランス人は、18世紀になってもなお、英語を解する者が少なかった。
 ある日国王ルイ15世が英字新聞を読もうとして、英語の分かる者はおるか?と聞いたところ、近臣らは全員首をふった。
 ベルサイユ中を探し回って、ようやく見つかったのが、ノルマンディー出身の近衛兵だった。
 ルイ15世は大いに喜び、褒美にこの近衛兵を、連隊長に格上げしてやったという。
                        
 ウィリアム征服王には4人の息子がいた。長男ロベール、次男リチャード、三男ウィリアム、四男ヘンリー。

 このうち次男は狩り場で流れ矢に当たって早世した。三男ウィリアムは、父王が病床についたと聞くや、兄のロベールを出し抜いて即位を宣言した。
 その3年後、ウィリアム2世もまた兄と同じように流れ矢に当たって死亡した。

 王が死んだとたん(何と4日後!)、四男ヘンリーが慌てて玉璽を手に入れて即位、ヘンリー1世となった。
 1106年、長男ロベールが王位を要求して挙兵したが失敗、監禁されてしまった。
 そのヘンリーが妻にしたのが、あのスコットランドに流れ着いたマーガレット姫とマルカム王との間に生まれた娘のマチルダ王女だった。

 ヘンリー1世は、「ボークラーク(博識)」とあだ名が付くほど学識の深い、頭の回る男だった。
 父親とは異なり、武力ではなく、知恵で国を治めた。英国豪族の長老たちを味方につけるさい、
「王位についたなら、アルフレッド大王の血を引く前王朝の王女マチルダと結婚する」と約束した。
 マチルダとの結婚は、英国とスコットランドとの間の戦争にも終止符を打った。

 マチルダは母や兄弟とともに英国に亡命して以来、修道院で暮らしていて、将来修道女になると見込まれていた。
 しかし、ヘンリー1世に見初められて、周囲の反対を押し切って王妃になった。
 そのせいか、マチルダは慈善活動に熱心だった。貧者やハンセン氏病患者のために病院を建て、橋をかけ、修道院を建立した。
 しかし、ヘンリー1世がフランスに行っている間に、わずか38歳の若さで急死してしまった。

 マチルダとの結婚の他に、ヘンリーが即位する際、英国人に約束したものがあった。
 それはむやみな税の取り立てを控え、英国人との和解を誓った「戴冠憲章」と呼ばれる文章だった。
 それは後に英国精神の基礎となる、マグナ・カルタ=コモン・ローの先駆けだった。