オリヴァー・クロムウェル/サムエル・クーパー作/ナショナルポートレートギャラリー蔵
Oliver.Cromwell(1599ー1658)

 革命の名の下に、アイルランドで虐殺・占領したクロムウェルは、2年後植民地法を制定して正式に英国の植民地にしました。アイルランドの三分の二は英国人のものとなったのです。
 しかし勝利感を味わったのもつかの間、1650年チャールス2世がスコットランドに上陸したとの凶報が入ります。すぐさまクロムウェルはスコットランドに侵攻してこれを撃破、翌年再び英国に上陸するも、ウースターでうち破ったのでした。
 まさに「俺の目の黒いうちは一歩も入れさせない」という執念にじむ勝利です。

 その頃議会内部では、チャールス1世を処刑した後ろめたさからか、さらなる革命への熱意も冷めがちとなり、軍との対立を深めていました。
 クロムウェルは軍と議会の間に挟まれてどっちつかずの立場となります。
(クロムウェルは議会の肩ばかりを持つ・・・)
 平等主義派を核とする軍内部では、クーデターの危険が出てくるほど不満が高まりました。
 この動きにほくそ笑んだのが、議会内部の反クロムウェル派でした。
 軍の統率を乱した責任を追及し、追放しようとの陰謀が動き出しました。

 この危機を見過ごすようなクロムウェルではありません。
 1653年4月、彼は武装して議会に乱入・・・唖然として座っている議員たちの間を歩き回り、大声で「裏切り者!」とののしりました。
「この飲んだくれ、風俗通いのスケベどもめ!」

 合図とともに大きく開け放たれた入り口からドッと兵士が押し寄せ、議長を椅子から引きずり下ろし、強引に議会を解散させてしまいました。そして選挙という手続きを無視して、自分に都合のいい人間を指名して、新たな議会を発足させたのでした。

 その議会は平等主義派の影響を受け、汚職の多い官僚組織の改革や、教会の権力の縮小、婚姻法の改正などに手をつけたのですが、宗教界や官僚からの抵抗にあ い、8ヶ月後には解散させられてしまいました。そこには平等主義派への牽制の意味もありました。

一方クロムウェルは着実に足下を固めていきました。
同年12月、彼は「統治章典」(注1)なる新憲法を制定し、その中で最高指導者を「護国卿」と定めています。そしてその初代「護国卿」に、みずから就任したのでした。

 

注1)統治章典
コモン・ローが主流の英国では珍しいとされる成文憲法。護国卿とは1422年生後6ヶ月で即位したヘンリー6世を補佐したグロスター公が摂政になった時に与えられたことから始まります。
第1条「立法上の最高権限は唯一人の人・および議会に招集された人民にある。その唯一人の人とは護国卿である」
第2条「人民に対する最高統治権の行使および政府の行政権は護国卿にある」(一部抜粋)


 彼は平等主義派のような、社会改革や平等の精神など持ち合わせてはいません。
 むしろ宿敵チャールス1世を倒し、今こそ最高権力者になろうとする絶好のチャンスを阻むものとして憎悪したのでした。

「護国卿」就任と平行して、全国を10の軍区(注2)に分け、英国を完全なる軍の統治下に置きました。絶えざるクーデターや軍事侵攻を恐れたためです。まるで現在のアフリカや南米あたりの軍事独裁国家のようです。

注2)10の軍区
各軍区に軍政長官を置き、軍事ならびに行政をまかせました。この長官には少将の地位が与えられたことから、この制度を「少将制」ともいいます。その役割は民兵の組織の他に税の徴収、治安維持、ピューリタン思想の徹底化でした。軍区ではギャンブルは禁止され、劇場・売春は禁止されました。


(王になる。)
 この頃からクロムウェルの中には、はっきりした野心が芽生えました。
 軍事独裁政権より、さらに安定した権力をえるためには、それしかない、と確信したのでした。
 1657年2月、議会では「護国卿」に王の称号を贈るよう提案が出ました。
 しかし、これには軍が激しく反対しました。足下から反対に会い、一度はあきらめかけたのですが、王とは名乗らないかわりに、「護国卿」の地位は世襲制と し、黄金の錫(しゃく)を持ち、王者のしるしである紫を身に纏いました。
 当時のフランス大使は、「国王といえども彼ほどの権力は持っていない」と書いてい ます。

 念願の最高権力者になった喜びもつかの間、死神がクロムウェルを襲います。
 暗殺を恐れ、転々と寝る場所を変えていた彼は高熱に冒され、1658年9月3日、ホワイトホール宮殿で亡くなりました。
 享年59歳。激しい嵐の日でした。

 遺体の枕元には国王の「三種の神器」である王冠・錫・黄金の球が飾られ、ウエストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂に埋葬されました。

 王政復古後、クロムウェルの遺体(注3)は掘り起こされ、チャールス1世の命日である1月30日に、タイバーン処刑場の絞首台にぶらさげられた、といいます。
 そして首だけは切り離され、ウエストミンスター・ホールの屋根の上に25年間も晒されていたそうです。その後、ミイラ状の首は珍品として好事家の間を転々として、1812年ウィルキンソンという人物の手に渡った、という説があります。

注3)クロムウェルの遺体
1874年12月31日付けの「ザ・タイムズ」の記事によると、25年間雨ざらしにされていたクロムウェルの首は、ある嵐の晩に吹き飛ばされて、当直の歩哨の手に拾われました。その後兵士の家族はミイラ状になっていた首をコックスという男に売却し、一時はロンドン市内の見せ物小屋で一般市民に公開されていたそうですが、1812年、ウイルキンソンなる人物に買い取られたそうです。