ジェームス1世が、チャールス1世が憎み続けたコモン・ローとは何なのか。 
 そもそも欧州には2つの起源の異なる法体系がありました。
 一つは東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が編成したローマ法をベースにした大陸法。これは法は人間が制定し、これに遵うべき、という基本理念です。 
 一方のコモン・ローは判例の積み重ねによって形成された一般常識に、古来からの掟や慣習が合体したもので、自然的に発生したものです。
(注1)コモン・ロー/一般慣習法。これを体系化したのはこの時代の法学者エドワード・コーク(1552ー1634)コークは、コモン・ローは議会や国王より上位にあるとしています。 

 下らない例で申し訳ないのですが、例えば「音を立てて物を食うな」という場合、別に法律で決まっているわけではないが、常識としてやってはいけない事はわかります。「音を立てて物を食うな」という法律を決めて違反したら罰するのが大陸法なら、音を立てて物を食べるのは日本の習慣ではマナーに反しているので、皆が口々に「行儀が悪い」と注意してやめさせるのがコモン・ローという事になるでしょうか。
  「そんなこと法律で決まってないだろ!」という屁理屈は通用しません。なぜなら、コモン・ローとは空気のように普遍的に存在しているものだからです。従って、国王といえども逆らうことはできません。 
 一方大陸法は、法律とは人間が作ったものであるから、当然人間が勝手に訂正したり、撤回したりできるものでした。 
 時の権力者が好き勝手に編纂することも可能です。大陸においては、この原則に従って、国王が法律の上位にあったのです。

 コモン・ローの基本は13世紀の大憲章(マグナ・カルタ)※クリックで解説に遡ります。議会が時の国王ジョンに突きつけたこの要求は、史上初の議会側の勝利でした。
 英国においては、議会が国王に意見するのはコモン・ローでした。 チャールスにしてみれば、何をするにも議会の顔色を伺わねばならないのが、鬱陶しくてなりません。彼は議会に無断で関税を決め、国民を自らの意志のもとに動員するため公債を発行して買わせ、金のない者は強制的に軍隊に徴集しました。    
 それに対して、1628年、議会はコモン・ローを盾に反旗を翻しました。
 「何人も議会の承認なしに、いかなる負担も強制されない。いかなる人間も前記のような方法で拘禁・抑留されない」 
 この「権利の請願」と呼ばれる意見書は、翌1629年、さらに過激になり、「何人といえども議会の承認なしに関税を徴収・実行する者は国家の敵とみなす」なる3箇条となって、ついに議会に逆らう者は反逆者とまで決めつけます。

 注2 )権利の請願議会の同意なしの課税禁止、逮捕拘留禁止、軍隊の強制宿泊、民間への軍法適用などの禁止。 

 これに対抗してチャールスは、「諸君が臣民たる義務を果たさないのなら、朕は神から授かった力を用いねばなるまい」と答え、議会を解散させてしまいました。 それから11年間、文字通りチャールスによる絶対王制が続きます。 その11年間の間、チャールスは関税や多種の税金を乱発し、国民はその重圧に苦しみました。
 貴族階級に年40ポンドを支払わせ、代わりに騎士に任命することで、廃れていた中世の騎士制度の復活をも目論みました。 
 一方彼はヘンリー8世の生んだ「国王こそ神に最も近い存在である」とした英国国教会を否定するピューリタンを激しく弾圧します。まずいことに、ピューリタンは独立富農民層(ヨーマン)や商人層に多く、ますますはチャールスは孤立していきました。   
 1637年、彼は英国国教会に逆らうスコットランドのピューリタン(カルヴァン派)を討伐しようと考えましたが、資金がおぼつきません。そこでやむなく11年ぶりに議会を開催し、軍資金を出させるつもりでした。 
 ところが(というか当然ながら)議会はチャールスへの不平不満怒り罵倒のオンパレードでした。それは議員をして「苦情のカタログ」と言わしめたもので、話し合いは決着がつかないまま、3週間でお開きとなってしまいました。 その直後、新たに議会が結成されます。こちらはピューリタン革命を含め12年間続くので、長期議会と呼ばれます。その議会はチャールスの決めた税金や強制的な騎士制度の復活を否定し、チャールスとその側近である大臣と対立を深めたのでした。