チューダー王朝の縁戚として、英国を支配することになったはずのスコットランド王ジェームス6世だった。
晩年のエリザベス女王は対アイルランド戦による国費の消耗、増税問題などを解決してくれるのではないか・・という期待を含んだ新王でした。45年に及ぶエリザベスの治世下で独立富農民層(ヨーマン)や商人層が発展し、議会での発言権は強まっていました。
エリザベスの巧みな責任回避により、かれらの不満は表面化することもなく東インド会社、北米開拓など外部の富へと目が向けられていました。
エリザベスの時代は、王の利益と議会の思惑とが一致していたかのように見えました。
それはエリザベス自身が山積した問題を「負の遺産」としての次代にバトンタッチしたからでした。ジェームス1世は王位とともに、借金も受け継ぎました。
危機の時代には強引でも国を率いて行かねばならない独裁者が必要とされる時があります。
ヨーロッパは、国王が中心となる「絶対主義」の時代を迎えていました。
しかしイギリスでは、暴君ヘンリー8世が没して半世紀、女子供だけの君主が続き、自然と補佐する立場になる男達(議会)の発言権が増しました。
ジェームスは子供でもなければ女でもなく、強力なリーダーとして議会に臨みます。
その根拠となった思想が、「王権神授説」でした。
ジェームスは自ら執筆した論文『自由な君主国の真の法律』の中において、
「王は議会の助言なしに日々の法律や勅令を制定できる」と主張しています。
また、ジェームスは自らこの王権神授説について議会で演説しました。
この国では、王は黙っていても王ではなかったのです。
国民や議会が支持して、初めて王位が安泰となり、同時に王国として機能したのです。
その点が「朕は国家なり」とうそぶいて平然としていられたブルボン王朝とは異なっていました。フランスの場合、王朝の交代期における戦乱を鎮め、天下を統 一したのはアンリ4世という独裁者でした。アンリ4世の打ち立てたブルボン朝には国王の意志で動く軍隊もありました。国王の軍を持たなかった英国とは対照 的です。同時に王権が議会とバランスを保っていたからこそ、ブルボン王朝のごとく、破壊的なまでに国民と乖離してしまう危険性もありませんでした。結果的 にはそれが英国王室の永続性につながりました。
しかし、短期的にみれば、欧州各国の王が権力を強めていく中、ジェームス一人が国家的借金を抱えて焦燥感を深めていました。
ジェームスはまず独断で外交政策を打ち出します。しかしたちまち議会から反発の声が上がります。
議会は「外交政策の審議は英国民の古来から産まれもっての権利である」と抗議文を提出します。
怒ったジェームスは抗議文を破り捨て、議会を解散させてしまいました。
議会がジェームスの外交政策に慎重だったのは、権利意識のみならず歴史的背景もありました。
エリザベスが王位につく直前に女王であったメアリー1世は、独断で親スペイン政策をとり、フランスと開戦したがために、欧州最後の拠点であったカレーを失うという失策を犯していたのです。
メアリーはスペイン王女キャサリンを母に持ち、心情的にもスペインに近い、半ば外国人のような女王でした。国民がジェームスに警戒心を持ったとしても、無理からぬことでした。
新教徒でもあったジェームスは、国内の新教徒の言うがままに、カトリックへの迫害を定めた反カトリック法を維持したまま、ピューリタンにも接近しようと試 みます。海外では30年戦争渦中にあったドイツの、新教徒側のリーダー・ファルツ選帝候フリードリッヒに、援助とともに自分の娘エリザベス王女を嫁がせます。
このファルツ候とエリザベス王女の子孫が、後にスチュアート朝断絶後、ハノーバー王家として英国を継ぎました。
ジェームスは1625年崩御します。後を継いだチャールス1世は、まるで父の仇とばかり、真っ向から議会と対立したのでした。