(1491〜1547)
ヘンリー8世/ハンス・ホルバイン/ナショナル・ポートレート・ギャラリー                                    

ヘンリー8世の肖像画ギャラリー
HENRY VIII GALLERY

 
ヘンリー8世家系図             

 ヘンリー8世。その名が英国では「率直王」というあだ名で呼ばれる事に違和感を感じる人は少なくなかろう。

 ヘンリーはチューダー王朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベスとの間に生まれた。1491年6月24日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいた。
 5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立されており、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーとしか映らなかった。

ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽ヨーク公であった彼が皇太子に立てられた。
 彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて育った子供であった。
 音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたという。
 12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・オブ・アラゴンと婚約した。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は女官長他側近達も証言する事実であった。
 しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかった。
 そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを正式な王妃に迎えたのであった。

 ヘンリー8世は俗に「ヘンリー8世と6人の妻たち」といわれるように、6回結婚したことで知られている。最初の王妃キャサリンとは父王の反対を押し切っての恋愛結婚、2度目のアン・ブーリンとはバチカンと決別してまでの不倫掠奪婚、3度目ジェーン・シーモアは2番目の妻を処刑しての恋愛結婚、5度目のキャサリン・ハワードも恋愛結婚、6度目のキャサリンパーも恋愛結婚である。
いずれもヘンリー8世自身が見そめて、恋をし、妃に迎えた女性ばかりであった。
わずかに4度目のアン・オブ・クレーフェのみ、政略の意味もあって妻にした女性であったが、それとてホルバインの描いた肖像画の美貌に惹かれたという理由もあった。

 恋愛結婚したはずの王妃たちの運命は決して幸福なものではなかった。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの故国スペインは、最初英国の同盟国であったが、1519年に
 神聖ローマ帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となった。
 カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであった。
 危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃キャサリンの立場は弱まった。
 おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリンに魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけた。

 熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げる。
 「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させた。

 1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・シーモアを娶り、後のエドワード6世が生まれた。同年から国内の法王領である修道院の財産没収に着手した。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となった。
 政情不安から、36年には「恩寵の巡礼」なる大反乱が勃発している。

 37年、ジェーン王妃が産褥が亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード家のキャサリンと結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまう。
 その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びた。

 1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せると
 ホワイトホール宮で息を引き取った。1547年1月28日のことだった。