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サンジュストは英雄なのか?~ フルーリュスにおけるサンジュスト~

 

(RD氏寄稿文)
       
 まず彼がル=バとともに北方軍へ派遣されたのは4月下旬らしい。
その後、彼は短期間だけパリに戻った時期を除き6月までこの方面にいたという。
フリュールスの戦いは6月26日であり、この時点でサン=ジュストが軍と同行していたのは間違いないようだ。ただし、ル=バに関してはその直前に軍を離れ ていた。6月2日にサン=ジュストの発案で軍事訓練学校が設立され、彼はそこの校長として赴任していた。

 サン=ジュストらは5月の中旬にいくつかの布告を北方軍に向けて出している。
その中には逃げ出そうとした者や戦列を離れた者は即刻逮捕して死刑にするという内容のものと、軍法会議を開く際に陪審を置くという正式な手続きを省略するというものがあった。
 後に彼がやったと言われている砲兵大尉処刑は、この布告に基づくものかもしれない。
 同じ5月に、連合軍相手に攻めあぐねていた北方軍はサンブル河方面に攻撃を集中することを決めた。この決断を下したのがピシュグリュであり、彼を支持したのがサン=ジュストだという。
ただ、サンブル河方面での戦闘は4月から行われていたとの説もあることには注意しておきたい。

 サンブル河渡河作戦は何度も行われ、何度も連合軍に跳ね返された。4月からの分を含めると最終的に7回の渡河が行われたという。ピシュグリュはサンブル 河方面にいなかったため、5月時点ではこの方面はシャルボニエとデジャルダンが攻撃を指揮していたのだが、その時点でサン=ジュストがどのような活動をし ていたかは不明だ。何度も行われた渡河作戦はサン=ジュストの強い要請によるものかもしれないが、彼がいたのなら将軍たちは簡単には退却させてもらえな かったのではないかと記している研究者もいる。ただ、少なくともル=バが5月中旬段階でサンブル河方面にいたのは間違いない 。

 6月になると東方で活動していたジュールダンのモーゼル軍がサンブル河方面のフランス軍と合流した。8日には各部隊をまとめて新たにサンブル=エ= ミューズ軍を設立しジュールダンの指揮下におくと公安委員会が決定したが、その決定が正式に効力を発揮したのは26日(29日という説もある)だった。こ の決定はサン=ジュストの忠告に基づくものだと見る研究者もいる。
 ジュールダンは12日に再びサンブル河を渡ってシャルルロワを包囲したが、連合軍の反撃にあって16日には退却した。しかし、彼らは18日にはすぐにま たサンブル河を渡って前進している。パリから戻ってきたばかりのサン=ジュストが再度攻勢に出るべきだと主張したことが理由だとも言われているが、一方で 軍関係者自身も同様に即座に反撃に出る考えだったと主張する向きもある。

再びシャルルロワを包囲したフランス軍だが、この場においてサン=ジュストがどのような行動を取ったかは論議の的となっている。シャルルロワを包囲するた めの大砲の配備が進まないことに怒ったサン=ジュストはジュールダンに対し、包囲している師団のアトリ師団長、砲兵指揮官のボルモン、工兵指揮官のマレス コを即刻射殺すべきだと主張したが、これにはジュールダンが反対した。代わりに1人の砲兵大尉が処刑されたという。
大尉が「休みなしで大砲の配備に努める」と言ったのに対してサン=ジュストが「明朝6時までに配備が終わっていなければ君を処刑する」と宣言し、それを実行に移したのだという。
この大尉処刑の話はマレスコやスールト(ルフェーブル師団の参謀長だった)の証言に基づいている。


 これに対して"Bataille de Fleurus"を記したデュピュワは、大尉の処刑を決断したのはサン=ジュストではないとの見方を示している。派遣議員のジルとギュイトンが出した布告 の中に、ボルモンがジュールダンに報告した命令に従わない士官について逮捕して軍法会議にかけろ、と記したものがあったためだ。もっとも、フィップスは ジュールダンが記した「砲兵の準備が進まないが、サン=ジュストが軍法会議を戦場に持ち込むそうだからこれで仕事がはかどるだろう」という証言(マレスコ も同様の証言をしている)を元に、やはりサン=ジュストが大尉の処刑にかかわっていたのではと指摘している。


 また、この時期にサン=ジュストは3万人の兵力をジュールダンの下からピシュグリュ率いる部隊へと移そうとしていたとの主張もある。
この件に関し、後にサン=ジュストはカルノーが自分を通さずに兵力派出命令をジュールダンへ送ったと主張したそうだが、カルノー自身は自分の案は1万 6000人をワルヘレン島へ送るというものであり、3万人をピシュグリュの部隊に移すというものではないとしている。どちらの証言が正しいのかは不明だ が、フィップスはサン=ジュストが実際にこういう命令を出してそれが実行に移されていたのならフランス軍は敗北していただろうと述べている。この命令は ジュールダンに拒否された。
 包囲されたシャルルロワは25日に降伏した。この時、シャルルロワ守備隊はまず手紙を送って降伏条件について相談しようとしたそうだが、それに対してサ ン=ジュストは「私が欲しいのは紙切れではなく要塞そのものだ」と返事。その数分後にシャルルロワは降伏したという(The Armies of the First French Republic)。シャルルロワ降伏によって、ここの包囲に当たっていたアトリ師団が翌日のフリュールスの戦いに参加することができるようになった。


 26日のフリュールスの戦いそのものでは、クレベールやベルナドット、ルフェーブル、スールト、マルソー、シャンピオネといった将軍たちの活躍を記した ものは多いが、サン=ジュストの具体的行動を記したものは見当たらない。マレスコによれば「この臆病な派遣議員は決して最前線に姿を現すことはなかった」 そうであり、この日も後方に待機していたとの説がある。
 なお、この戦いではジュールダンは連合軍の兵力を実際(5万2000人)よりはるかに多い9万人と誤認して防勢を取ったという。
 フランス側が兵力で不利だったという俗説は、このジュールダンの勘違いから来ているのかもしれない。

以上、概観するにサン=ジュストがフランス軍勝利のためにある程度寄与したのは間違いないだろう。
 サンブル河方面に攻撃を振り向けたことや、6月18日の(7回目の)渡河にあたって彼が一定の役割を果たした可能性は高い。シャルルロワを早期に陥落させるうえで彼の脅しが役立ったとも言えるだろう。
 しかし、サン=ジュストがいなければ負けたとまでは言えそうにない。

 フランス軍は1794年に入ってから連合軍を数で圧倒できるだけの兵力動員を成し遂げていた。普通に戦闘を続けていればいずれは数の力で連合軍を押しつぶしていたのは間違いない。
 事実、オーストリア軍は戦場までやって来ていた神聖ローマ皇帝フランツ二世を5月下旬の段階でウイーンへ退去させ、ネーデルランドからの撤退を視野に入れた準備にかかっていた。フリュールスの戦いは始まる前からフランス軍の勝ちが決まっていた戦いだとも言える。
 そしてまた、サン=ジュストが部隊の先頭に立って戦ったと記している研究者は私の知る限り存在しない。
 そもそも彼は派遣議員であって兵士でも将軍でもないのだから、戦闘の際に最前線にいる必要は全くないのだ。サン=ジュストの仕事は部隊の先頭に立つことではなく、軍が十分に戦える条件を整備するために補給を確保したり地域の支持を獲得したりすることにある。サン=ジュストの功績について論じるのであれば、
「彼が英雄であったかどうか」などというつまらないことではなく、彼が派遣議員として具体的に何をしたのかこそ調べるべきであろう。

 

 

           

                  参考文献
" The Art of War of Revolutionary France" Paddy Griffith
 "Who was Who in the Napoleonic Wars" Philip J. Haythornthwaite
 "The French Revolutionary Wars" T. C. W. Blanning
 "Swords around a Throne" John R. Elting
 "The Bayonets of the Republic" John A. Lynn
" Historical Dictionary of the French Revolution" Samuel F. Scott & Barry Rothaus (editor)
" The Armies of the First French Republic" Ramsay Weston Phipps
" The 1911 edition Encyclopedia" http://1911encyclopedia.org/index.htm
" Dictionary of the Napoleonic Wars" David Chandler

各種資料にあるフリュールスの戦いの参加兵力
France 73000 Allied 52000 (The 1911 edition Encyclopedia)
France 75000 Allied 52000 (The Armies of the First French Republic)
France 70000 Allied 52000 (The Art of War of Revolutionary France)
France 76000 Allied 52000 (The French Revolutionary Wars)
France 75000 Allied 52000 (Historical Dictionary of the French Revolution)
France 70000 Allied 52000 (The Bayonets of the Republic)
France 75000 Allied 52000 (Dictionary of the Napoleonic Wars)

(なお、本文中のflerusの発音は、RD氏の選択によりフリュールスとなっています。)

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