(18世紀ホガース作「ジン横丁」ジンによるアルコール中毒患者だらけの街角)
ゴミ溜めに生きる
~イーストエンドの物語~
「イギリスの街は、外国人から見ると、奇妙に見える。ここには城壁も なければ門もないし、恐ろしい監視人もいない。街でも村でもまるで 野原を行くように 通り抜けることができるのだ。」1782年、ドイツの聖職者だったモリツは、そういって驚いてた。
パリも18世紀まで城壁が存在したし、ドイツの諸都市もまた戦乱から自治を守るために外部とのボーダーを必要とした。
ところが英国では、街は田畑や牧場と入り交じりながら外へと広がっていたのである。
実は15世紀まで、英国でも中世ヨーロッパ風の街は存在した。
ヨークなどの司教座を持つ地方都市は、大聖堂や修道院を中心に、いわば門前町として、城壁の内側で栄えた。カンタベリーでは7月6日の聖ベケット殉教の日に華やかなパレードが石畳の大通りを練り歩いた。
それは儚い中世の夢であった。やがてヘンリー8世の暴力的な宗教改革により修道院は解体され、教会の持っていた財産は豪族(ジェントリー)や国王の手に奪われ、カンタベリーなど多くの城下町が廃墟同然と化していった。
その一方、定期的に市の立つ場所に自然と人が集まり、集落から街へと成長していった。その中でもロンドンの成長は目を見張る物があった。
さながら砂が風で吹き寄せられるがごとく人が集まり、軟体動物の触手のように外へ外へと伸びていったのだ。
なんと、16世紀初頭には6万人に過ぎなかった人口が、18世紀初頭にはその10倍近い50万人にまで膨れ上がっていた。これは当時約500万人強の総人口の、一割にあたる。
10人に一人の英国人がロンドンに住んでいた計算になる。
人口が増えるにつれ、都市の整備も進んだ。
すでに16世紀から法令化されていた道路の舗装や街灯の設置も、18世紀にはぐんと多くなり、道路は各家庭で玄関先に吊るすことが義務づけられたランプと街灯に明るく照らされていた。
水道設備も進んでいた。パリ市民が汚いセーヌ川の水を人力で汲んでいた頃ロンドンでは「9台の蒸気ポンプを使って水が豊富に供給され潤って」いた。
(メルシェ/18世紀パリ生活誌)
現代のロンドンっ子は働き者である。日本ではみかけない24時間営業の大型スーパーも珍しくない。が、貧民が押し寄せた18世紀のロンドンでは、ロンドン 育ちの労働者は怠け者で評判が悪かった。むしろ田舎から出て来た人間の方が就職率も高いと言うので、わざわざ田舎者のふりをして職安所でもあったIN(旅 籠)に現れる者も多かったという。また、一家の働き手を失った女性も女中などの仕事を求めて状況した。ロンドンの未亡人の割合は、地方都市の二倍の率で あったという。
貧民の流入が最も多かったのは、エリザベス女王の時代であった。
修道院の解体により身を寄せる場所の無くなった貧民や、共同耕作地をジェントリーに奪われて生産できなくなった農民が、職を求めて上京しそのまま住み着いて貧民街を形成した。中でもイースト.エンドは1660年ですでに5万人もの大スラム街だった。
それとは対照的にウエスト.エンドに居を構えることの多かったブルジョワは市内を嫌い、ロンドン西部に「ザ.パーク(公園都市)」と呼ばれる高級住宅地を形成した。
先にあげたドイツ人モリツ氏は、イースト.エンドのセントキャサリン地区スラムを見て「このみじめで汚らしい街路と今にも崩れ落ちそうな家並みを見たら、誰しも壮麗なロンドンの印象を誤るだろう」と書いている。
ロンドン中央では整備されていたインフラも、イースト.エンドにまでは及ばなかった。ストラスフォードの食肉工場から腐った肉や汚物が川に流され、糞尿な どもそのまま流入した。そのため、毎年のように赤痢が流行して、この地区の子供の半分が5歳になる前に死んだという。
スラムでは、どんなものでも小金に化けた。バケツ一杯犬の糞を集めると皮なめし職人が10シリングで買い上げた。
下水道に降りると、落ちているコインを拾うこともできたが、満潮時には逆流して来た川の水で溺死する危険があった。
地上ではスミスフィールドの家畜市場に行くための牛や羊の群が暴走して通行人を跳ね飛ばし、家々をぶちこわした。
そんな最悪の場所にもかかわらず、いや、最悪だからこそ、絶望を忘れるために昼間からジンで飲んだくれた。
ジンは税金がかからない上に誰でも自由に販売することができたからだ。
「1ぺ二ーで酔っ払い、2ペニーで死ぬ」
(イーストエンドのジンの広告)
参考資料
路地裏の大英帝国 角山榮 平凡社