エリザベス・クック/作者不詳
エリザベス・クック
 Elizabeth Cooke
  (1528~1609)

クック家系図

 ふわふわした白い衣装に包まれた雪の女王ごときこの美女の名はエリザベス・クック。
 女王エリザベス1世の重臣たち、ニコラス・ベイコンやウィリアムセシルらと繋がる名門クック家の娘であった。
 もともとクック家はエセックス州の豪族であり、歴史の表舞台に現れたのは、さほど古い時代ではない。
 エリザベスの父・アンソニー・クックが最初であった。
 アンソニーは1539年、時の国王ヘンリー8世の護衛に任命されたことから、中央での活躍が始まった。彼は優れた学者でもあった事から、皇太子エドワードの教師ともなり、1547年に皇太子がエドワード6世として即位した
 時には、名誉あるバス・ナイトに任命された上に、同年の11月開催された議会のメンバーの1人となった。

 順調に見えたアンソニーの出世も、幼王エドワードが1553年に崩御すると陰りを見せ始めた。
 ノーサンバーランド公の陰謀によるジェーン・グレイの即位を支持したがために、一時ロンドン塔に監禁される事態ともなった。
 次のメアリー1世即位時には、報復を恐れて大陸に亡命し、メアリーが崩御するまでストラスブールに留まっていた。

 しかしクック家は優れた娘婿たちを持ったおかげで、再び興隆する。
 長女ミルドレッドは、1545年愛妻を亡くしたばかりで傷心のウィリアム・セシルの後妻となる。
 ミルドレッドは背骨の曲がる奇形があったが、それが遺伝したものか、ミルドレッドの生んだ息子ロバートは、身長160センチしかない小男だった。
 だがロバートは父同様に女王エリザベスから深く信頼を受け、国政を任される身となった。

 次女のアンもまた、1553年後の国璽尚書(Sir Lord Keeper of the Great Seal)となるニコラス・ベイコンの妻となる。
 その息子が同じく国璽尚書となるフランシス・ベイコンである。

 そんな姉と義兄達を持ったエリザベスは、宮中では肩で風を切って歩く身分だった。
 エリザベス自身は1558年6月、翻訳家のトーマス・ホービーと結婚した。
 しかし8年後、夫はフランス駐在大使に任命されパリにいる間に亡くなった。
 それから10年近く未亡人生活が続いたが、36歳の時、ジョン・ラッセル卿に求愛されて、再婚に応ずる。
 40近くなってもなお、ラッセルとの間に3人の子を儲ける元気さだった。しかし、その夫も10年後には先立たれてしまった。 上の肖像画の描かれた時期は不明だが、白いベールやガウンの下が簡素な喪服であること、顔立ちに若さが残る事などから、最初の夫トーマスを亡くした時の未亡人生活中(1566年から74年まで)ではなかろうか。

 その頃には義兄たち~ウィリアム・セシルもニコラス・ベイコンも、押しに押されぬ議会の重鎮、女王の両腕であった。
 エリザベスは事あるごとに2人に手紙を書き、我を通したのであった。
 1592年、エリザベスは前夫の所領であったバークシャーのビーシャムハウスに女王エリザベスと、重臣一同を歓待した。
 その中にはもちろん姉ミルドレッドの夫・ウィリアム・セシル、姉アンの夫ニコラス・ベイコンらも含まれていた。この後、エリザベスはまるで趣味のように訴訟とトラブルを繰り返す。

 エリザベスの使用人が隣接するバークシャー/ラブレイス家当主リチャードとトラブルを起こした際には謝罪するどころか、一切無視したために、リチャードは激怒し、両家の使用人同士が格闘する騒ぎとなった。

 仕返しのために、リチャードはエリザベスを「安全のため」と称してウィンザー城に監禁、エリザベスは「怪我をさせられた」と大げさに訴えて見せたが、司法長官は噂が下火になるまで、その件を放置しておいた。

 エリザベスは演劇や音楽、特にリュート演奏家や舞踏家のパトロンであったが、ロンドンの自分の別邸のそばにシェークスピア劇場が建設されるのが気に入らなかったらしく、枢密院に提訴してその計画を潰している。

 1600年、御年70余歳にしてノッティンガム伯とダニングトン城の管理を巡って大喧嘩し、星庁省(ウェストミンスター宮殿の星の間)に現れて大声でわめき散らすこと30分、それでも飽きたらず、ウェールズ旅行を楽しんだ後、再びダニングトン城に立ち寄って、一晩中伯爵への批判をし続けたという。

 そんな荒々しい気性とは別に、エリザベスは亡夫同様優れた翻訳家であった。
 フランス語の宗教論文「'A Way of Reconciliation touching the true Nature and Substance of the Body and Blood of Christ in the Sacrament,(聖礼典サクラメントにおけるキリストの真実の肉体と血なる物質に触れて和解する方法)」を英語に翻訳し、出版した。

 (サクラメントとは)
「洗礼」「聖体拝領」「堅信」「赦しの秘蹟(懺悔)」「叙階」
「結婚」「終油の儀式」ら7つのキリスト教の一連の儀式
カトリックでは「秘蹟」プロテスタントでは「聖典」と訳される。


 死の間際、エリザベスは時のガーター紋章官ウィリアム・デティック卿に長文の手紙を送り、自分の葬式のやり方を事細かに支持している。そして自分の翻訳の一部をビーシャムにある自分の墓とウェストミンスター寺院に葬られた2度目の夫ラッセルの墓石に三カ国の文字で彫らせ、己の語学力を見せつけたのだった。
 1609年5月、エリザベスは81歳の高齢で亡くなった。
 未だにビーシャムの教会では、エリザベスの幽霊が出没しているという噂がある。

           

  参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
Royal Barkshire History by David Nash
Laudate Webサイト