白鳥の姫/クレーフェのアン物語

ヘンリー8世妃アン・オブ・クレーフェ/
ホルバイン作/1539/ルーブル美術館蔵
           
 アンはライン河を見下ろす窓際に座っていた。
 河は、クレーフェ城を乗せた巨大な岩山にぶつかって二手に別れ、一方はドイツ内へ、もう一方はオランダへと流れを変え、二度と合流することはなかった。

 人々は城を見上げて、この国がなぜ「clevesクレーフェ」と呼ばれているか理解した。
※(cleves=ドイツ語Kliff、英語 cliff、日本語「崖」)
 岩山の上に立つ塔を、人々は「天にむかって首をさしのべる白鳥のようだ」と、讃えた。

 クレーフェ公国の領土は、この城を起点にして神聖ローマ皇帝領(オランダ)とドイツ・ノルト・ウェストファリア地方にまたがり、ドイツ諸侯と神聖ローマ帝国皇帝との間で、微妙なバランスを保っていた。
「平和公」と呼ばれた父のヨハン(ジャン)3世は、近隣のドイツ諸侯がルター派に転向したのをきかっけに、自国もプロテスタントへ改宗した。

 窓から見下ろすライン河は、毎日違う水が流れているはずなのに、毎日少しも変わりなく見えた。
 ただ浮かんでいる小舟の数や、天候や風の強弱によって、水面の光り方が異なるぐらいだった。

 冬になると、遠くロシアから飛来する白鳥の群を眺めることもできた。
 クレーフェ城でひときわ目立つ塔が、「白鳥の塔」の異名を持つのは優美な外見だけではなく、城と遠くないライン河の畔(ほとり)に、白鳥の越冬地があるためでもあった。

 アンは子供の頃、白い毛皮のコートで身を包み、羽を休める白鳥の群を見に行ったことを思い出した。
(あの鳥たちはまたロシアにもどっていくけれど、私がここを飛び立ったら、二度と戻らないのだわ)
 悲しくもなければ、うれしくもない事実だった。

 数ヶ月前、はじめて父から縁談の話を聞かされたとき、胸の中で、嵐の前触れのようなざわめきを感じた。
 来るべき時が来た、と思った。

 アンには、子供の頃、婚約を交わした相手がいた。フランスのロレーヌ公だった。
 だが、その約束は、どちらも破棄すると言い出さないうちにお流れとなって、そのまま忘れ去られた。

 数年後、23才になって、遠い英国王ヘンリー8世との縁談が持ち上がった。

 父ヨハン3世も、兄ヴィルヘルムも、結婚を無理強いしようとはしなかった。
 アンは「いやだ」とはいわないが、「うれしい」ともいわなかった。
 父も兄も、国の事情やヘンリー8世の評判を淡々と伝えただけだった。
 アン自身も、「話はわかりました」と簡潔に答えた。
 縁談は成立した。

 それから狭い宮廷は、結婚準備で騒がしくなった。
 ドタバタの最中に父ヨハン3世は病で倒れ、兄ヴィルヘルムが後を継いでクレーフェ公となり、初夏には英国から来たホルバインという画家が、慌ただしくアンの肖像画の下絵を描き、帰っていった。

 何もかもが、深く考える間もなく進行していった。
 明日、クレーフェを離れるという夕刻、アンは白鳥の塔から真下を眺めた。
 ライン川はいつもと同じように流れていた。たとえばアンが身投げしたとしても、一瞬波しぶきを立てるだけで誰の注意も引かないかもしれない。

 翌朝、アンの一行は出発した。
 アンはオランダとフランスを横切り、英国領であるカレー港からドーバー海峡を渡る予定だった。
 季節は12月半ばに入っていた。冬の嵐が、海峡の海を激しく波立たせて、船を飲み込みかねない勢いだった。アンの一行は嵐が鎮まるまで、カレー港で待たされた。

 始めの数日間は、誰もが港のにぎわいや市場見物で気が紛れたけれど、一週間もたつと飽きてしまった。
 行き交う人々の姿も興味を引かなくなり、灰色の水平線が一行の将来を暗示するように、重苦しく横たわっているだけだった。

 侍女の中には「このまま嵐がやまなければいいのに・・」と、呟く者もいたが、それをいけないことだと
咎める者もいなかった。アンを除く、全員が英国行きに漠然とした不安を抱いていた。

 そろそろ2週間がたとうとしていた頃、アンは思い切って口を開いた。
「みんな、何をそんなに怖がっているの?」
 まるでアンが不吉な言葉を口にしたかのように、全員の顔がこわばった。

「いろいろと噂を聞いておりますので・・つい、気持ちが先走ってしまいます。」
 侍女は無理して笑顔を見せようとしたが、泣き笑っているようなおかしな表情だった。

「噂って・・・国王陛下のことですか?」
 誰かが悲鳴をあげてもおかしくないほど、張りつめた沈黙がおりた。
「さようでございます。」
 年配の侍女が、開き直ったようにキッパリと答えた。

「陛下に関する噂ぐらい、知っていますわ。」

 アンがけろりと答えると、一瞬全員の顔が空白になった。

「最初に縁談の話があった時、父上と兄上がお話して下さいましたもの。英国のヘンリー8世陛下は気まぐれな激情家でいらして、どんなに好きになった女性でも、気が変わったら何をなさるかわからない方だそうですわ。最初の王妃は父王の反対を押し切ってお迎えになった方なのに、娘しか生まなかったというので監禁された上に毒殺、2番目の王妃も娘しか生まなかったから反逆罪で斬首、3番目の王妃は男の子を産んだけれど、体が弱くて亡くなられた・・・でしょ?。」

 侍女たちは目配せをしあって、「誰かフォローしてよ」と、お互いせっつき合った。
「えっと・・」
「あの・・」
 2人の若い侍女が同時に口を開いた。
「姫様は、そんなお相手でもかまわないのですか?。怖くないんですか?」

 アンは軽やかに笑った。
「いやだわ、みんな、私が首を斬られると思っていたのね。国王陛下のご趣味は、人殺しではありませんわ」

 ちょうどその時、外から「波が鎮まりました。いつでも出航できます」という声が聞こえた。
 誰かが廊下をバタバタと走って、近づいてくる。
「いよいよね!」
 アンは楽しそうに言った。
 強風の中、船は見えない手で運ばれるような勢いで港を出た。
 
 ロンドン郊外、ハンプトン宮殿。
 ヘンリー8世は1人でローストチキンを1羽分平らげながら、まるで実物と向き合っているかのように、目の前に置かれたアンの肖像画から目を離さなかった。
「いつ見ても美しい姫君だ。この美を手に入れることができるとは、朕(わし)は幸運である」

 侍従はさりげなく、食べかけのチキンの皿をデザートの皿と交換し、
「そのお言葉は、姫君のためにとっておかれたらいかがですか?」と声をかけた。
「うむ」

 ヘンリー8世は鷹揚(おうよう)にうなずいた。
「姫が妃になったら、朕(わし)は今度こそ良き夫となり、片時も姫を手放さず、あたたかい家庭を作ろう。
 私の宝として、誰にも盗られぬよう、ハンプトン宮殿に隠しておくとしよう!」

 そこに寵臣エセックス伯トーマス・クロムウェルが足早にやってきた。
「陛下、クレーフェの姫君がロチェスター館にご到着になりました」
「むむ、まちかねたぞ」
 ヘンリーは勢いよく椅子から立ち上がった。ロチェスターといえばロンドンに隣接するケント州だ。
 もう待ってなどいられない。

「いよいよ実物と会えるのだな」
と、ヘンリーは肖像画に軽くキスをすると、ハンプトン宮殿を後にした。

 アンはロチェスター館の一室の窓際に座り、英国式庭園を見下ろしていた。
 その時、1人の太った背の高い男が、冬枯れの庭を元気に横切ってきた。。
 男はアンのいる窓に向かって手をふろうとして、相手がまったくこちらに無関心な様子に気づいて、苛立たしげに手を止めた。

 アンは一部始終を、雲でも見ているように淡々と眺めていた。

「陛下ですよ」
 侍女が慌ててささやいた。
「そのようですね」

 アンが返事をしたかしないかのうちに、背後のドアが開き、英国王ヘンリー8世が金糸の刺繍で埋め尽くされた豪華な上着を身にまとい、「まいったか!」といわんばかりに、入り口に立ちはだかっていた。
 アンは恭(うやうや)しく頭を下げた。

「そなたが、アンか」
「はい、クレーフェ公国のアンでございます」
「遠路はるばる、大儀(たいぎ)であった」

 ヘンリーは混乱していたし、恥ずかしくもあった。
 目の前にいるのはヘンリーが思い焦がれた相手ではなかった。
 あの美しい肖像画とは、ほとんど別人といってよかった。
 肖像画を見ていなかったら、あるいは最初から似ていないと知っていたなら、それなりに満足のいく出会いになったかもしれない。
しかし今のヘンリーは、ひたすら恥ずかしかった。

(いい年をした国王ともあろう朕(わし)が、なぜ肖像画1つに熱中してしまったのか)

 画家が、国王を騙したのだろうか。いや、彼は慌ただしくスケッチをして、帰国してから絵を完成させた。
 モデルの細部まで観察する暇などなかったのだろう。

(誰だ、誰なんだ!朕にこのような恥をかかせたのは!)

 気配で主君の怒りを悟った侍従が、おそるおそる尋ねた。
「陛下・・何か・・・予定に変更はございますか?」
「ない!。すべて予定通りだ!」
 1月6日、予定通り、アンは挙式のためにグリニッジ宮殿へ迎えられた。
 銀糸で刺繍したドレスをまとい、頭には宝石と真珠、ローズマリーの花の冠で飾られていた。
 男は、関心のない相手にはいくらでも礼儀正しくふるまえるものである。
 ヘンリーは完璧なマナーでアンの手を取り接吻すると、礼儀正しく式に臨んだ。
 アンが特別不美人だというわけではなかった。ヘンリーがあの肖像画に恋をしていなければ、魅力的とさえ
見えたかもしれない。今のヘンリーには、嫌悪感と屈辱しかなかった。
 かろうじて怒りを抑え、スケジュールをこなすだけで精一杯だった。

 結婚式の夜。アンは白い絹の夜着をまとい、一足早く床に入って新郎を待っていた。
 ヘンリーは腕を組み、ベッドの前を、右に行っては立ち止まり、左に行っては溜息をつき、1時間が過ぎた。それから何かを決意したように
「アンよ。朕の妃よ」と声をかけた。

「はい、陛下」
 アンはちょこんとベッドの上に正座した。

「言いにくいことではあるが・・つまり・・・朕(わし)は呪いがかけられていて・・・・そのぉつまりだ・・男になることができないのである。妃であるおまえを抱くことができない。」
 英語が苦手なアンは、込み入った話はよく飲み込めなかった。

「私が何か粗相(そそう)を?」
「いや・・おまえは何も悪くない・・・何か朕の方に咎(とが)があるのだ。たとえば肖像画が似ていないとか」
 ヘンリーはどう説明していいのかわからず、あらぬことを口走っていた。

「肖像画と申しますと・・・あのエセックス伯爵様が急いで描かせた、私の肖像画でございますか」
「その通りだ」
「あまりにも時間がなかったので、画家はほんの少し私の顔を写しただけで、エセックス伯爵様の命令で帰国してしまいました。陛下のお心に添わない出来だったとしたら、残念ですわ」

(やはりエセックス・・クロムウェルめ。あいつの仕業であったか)

 腹の底から怒りがこみ上げてきたが、目の前のアンが気の毒でもあった。

 ヘンリーにしては気弱に、ご機嫌取りとも受け取れるほど優しく言った。

「それでだ・・・朕(わし)はおまえの夫になることができない。だから結婚式はなかったことにしてほしい。妃の地位を返してほしいのだ。そのかわり、ほしいものは何でもやろう。故郷(くに)に帰りたければ
 それもよし。英国に残りたければ、王族の地位を与えてやろう。おまえは自由。朕も自由だ・・・どうだ?」

 アンはヘンリーが早口にまくしたてるので、ほとんど理解できなかったが、ただ1つ「おまえは自由だ」
という単語が耳に残った。

(自由・・・・。)
 まるでロシアから飛来する真冬の白鳥のように、純白のつばさをもらったような気持ちだった。
 誰にも縛られず、どこへでも飛んでいける・・

 夜が明けてから、アンは通訳を通して、正式に王の意向を聞いた。

 結婚式は無かったものとして、妃の位は返上すること。
 その見返りとして、アンには王族としての待遇と「王妹」の称号、年間4000ポンドの金と城が与えられるとのこと。もちろんアンは快諾した。

 しばらくして、アンはヘンリーに1つだけ頼み事をした。
「私の肖像画を見せてほしい」と。
 すでにヘンリーは新しい美人に夢中だったので、肖像画はハンプトン宮殿の一角に放置されていた。

「自分の顔」と体面した時、アンは思わず笑い出した。
「確かに私の顔からシミやソバカス、シワを除いたら、垂れ目を修正して、鼻を高くしたら、こんな顔になっていたかもしれないわ。」
 侍女たちも心の重荷を下ろしたように、軽やかに笑った。

 しかしアンの合意とヘンリーの威光があっても、一度成立してしまった結婚を解消するのは容易ではなかった。
 議会はクレーフェ公国との関係悪化を恐れ、離婚に反対した。
 ヘンリーは恥を忍んで、アンとは肉体関係を持てないことを宣言し、同時にあちらこちらでアンを嫌っていると吹聴して歩いた。

 初夏になって、ようやく議会はアンが「ロレーヌ公との婚約を正式に解消していなかった」という理由で
結婚解消の理由を見つけ出した。7月9日、議会は正式に結婚の無効を宣言した。
 その3週間後7月28日、王の寵臣だったエセックス伯爵トーマス・クロムウェルが反逆罪で処刑された、という。

 アンは国王からもらったベイナーズ城の窓際に座り、真下を流れるテムズ河を眺めていた。
 ライン河より流れは遅く、暗い川面(かわも)は曇天の下で淀んで見えた。

 アンはヘンリーがこっそり「おまえの悪口を言ってすまなかった」と言ったことを思いだし、静かに微笑んだ。それから故郷の兄に宛てて書いていた手紙の封をした。

(お兄様・・・私が夫にできなかった国王陛下は、優しいお友達になりました)

  (完)