
ヘンリー・フィッツロイ/オーフォード伯コレクション
ヘンリー8世の愛人たち
1、エリザベス・ブラント
Elizabeth Blount
(1502~1539)
エリザベスは1512年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として宮中へ上がった。わずか10歳だった。
当時の侍女の年俸は100シリングであったという。
エリザベスの母も、元は侍女としてヘンリー7世の王子アーサーに仕えていた。
その頃キャサリン・オブ・アラゴンも皇太子妃として、エリザベスの母をよく知っていた。
やがてアーサーが早世してしまうと、キャサリンは義弟ヘンリー8世の妃となる。その時の縁で、エリザベスは王妃付きの侍女に任命され、父のジョン・ブラントもまた国王付きの護衛(King's Spears)に任命された。
1514年、キャサリン王妃が生まれたばかりの王子を失った時、王妃を慰めるためにエリザベスは唄い、踊った、
時にはヘンリー王とペアを組んで踊ったこともあるという。エリザベスはしだいにヘンリーの気を惹くようになり、父ジョンはKing's Spearsから、王の寝室付き護衛官(Esquire of the Body)に昇進した。
実はヘンリーの愛人はエリザベス・ブラントが最初ではなかった。
エリザベスの友人でもあるブライアン家の娘(エリザベス・ブライアン)はいち早くヘンリーの愛人となり、降るような贈り物(ダイヤモンドの首飾りにミンクのコートなどなど)の他、母親にまで500ポンドもの大金が下賜された。
1518年10月、エリザベスはメアリー王女(後のメアリー1世)とフランス皇太子との婚約式に出席した。
キャサリン王妃は、ちょうど7回目の妊娠中で、大事をとって静養中だった。エリザベスはヘンリー8世のためだけに唄い、踊った。その時、すでにエリザベスはヘンリーの子を身ごもっていた。
翌1519年6月15日、エセックス州のジェリコ修道院で、男の子が産まれた。
父の名にちなんで、「ヘンリー・フィッツロイ」と名付けられた 。
(フィッツロイとは「王の息子」を表す)
ヘンリー8世はしばしばエリザベス母子を訪ねては、「ジェリコに行ってきた!」と冗談交じりに嬉しそうに語っていたという。
しかし、そんなヘンリー8世の愛も長続きしなかった。
やがて彼の心はエリザベスから、ブーリン家の姉妹へと移っていった。
そのため、エリザベスはギルバート・タルボーイズという男との結婚を強要され、お払い箱となってしまった。
ギルバートはエリザベスを妻に迎える代償に、ナイトの称号とリンカシャー保安官に任命された。
1525年、エリザベスは夫について、リンカシャーヘ移り住んだ。
一方エリザベスの産んだ「ヘンリー・フィッツロイ」は国王に引き取られ、リッチモンド公の称号を与えられた。
皇太女(Princess of Wales)だった異母姉メアリーに次ぐ王位継承者と見なされ、「王子」と呼ばれていた。
エリザベスは1530年夫ギルバードに先立たれ、息子を頼って宮中へ戻ってきた。
しかし、そこにはすでに新たな愛人として、アン・ブーリンが権力を握っていた。
アンは王妃キャサリンやメアリー王女、ヘンリー・フィッツロイのみならず、エリザベスまで目障りだとして、宮中から追い出したのだった。4年後の1534年、エリザベスは、亡父の所領の隣に地所を持っていたクリントン卿と再婚した。
一方フィッツロイはフランス宮廷へ留学に出された。
1 533年10月、アン・ブーリンの兄ジョージがフランス宮廷に着き、フィッツロイと面会した。
その直後、同じワインを飲んでいたフィッツロイとその友人が倒れた。
2人を看た医師は、ただちに何らかの毒物による典型的な中毒だと診察した。
フィッツロイが倒れた直後、ジョージ・ブーリンは単身英国へと逃げ帰っていた。
後にジョージの妻は、アンとジョージの2人が、「フィッツロイの毒殺を計画していた」と告白したという。
1536年、ヘンリー8世はフィッツロイを呼び、涙ながらにアンの企みが成功しなかったことを喜んだ。
「王は涙を浮かべ、彼と、彼の姉(メアリー)が呪われた娼婦(アン・ブーリン)
の毒殺の魔の手から逃れたことを神に感謝した。(King, with tears in his eyes said that both he and his sister ought to thank God for having escaped from the hands of that accursed whore who had planned their death by poison.)」
だがフィッツロイは同年7月、新妻を残して突然早世してしまう。
17歳の誕生日を迎えたばかりであった、
リンカシャーでは、ヘンリー8世の離婚のゴタゴタから生じた宗教改革から王室への不満が高まり、
それが後に「恩寵の巡礼」と呼ばれる反乱に繋がることになる。
反乱と突然の息子の死・・それがエリザベスに深い衝撃を与えたのか、1539年2月、世を去った。
享年37歳。