名門に生まれながら、誰も知らない少女がいた。
キャサリン・ハワードという。
本来なら女主人としてうやうやしく「キャサリン様」と呼ばれているはずなのに、誰もが気楽に「あの子」と呼んだ。
父も母も数年前に亡くなり、家の女主人は祖父の後妻だった老婦人だった。
義理の祖母にあたる彼女は、血の繋がらないこの少女にほとんど興味がなかった。
「ねえ…?」
誰かがキャサリンの耳元で囁いている。
「聞いてる?」
返事を待たずに、誰かが小さく笑い出した。
話しかけられたのはキャサリンではなかった。
彼女の両側で横になった侍女達のおしゃべりが、夢の中に割り込んできたのだった。
5分もたたないうちに、再び眠りに落ちていった。
キャサリンが自分の部屋で寝ていることはほとんどなかった。
侍女が世話をするのを面倒くさがって、自分の住んでいる大部屋に連れ込んでしまうからだ。
幼いキャサリンもまた、ここにいれば誰かが相手にしてくれるので、淋しくなかった。
年が明けて長い冬が去った。英国の6月はストーブが欲しいほど冷える日もあるが、それでも新緑は目に刺さるほどの鮮やかだった。
庭先のヤマモミジの木の葉が重なり合って、レースのような繊細な影を小道に落としていた。
その日は、風の匂いがいつもと違う気がした。心が浮き立つような暖かい空気の中に、一筋の冷たい空気の層が混じっている。冬が背中を向けて去って行くのを見たような気がした。
この時間、キャサリンがどこにいて何をしているか、気にする者はいない。
このまま姿を消しても、夜になるまで誰も気が付かないだろう。
キャサリンは木立の向こうから、見覚えのある少年がため息をつきながら憂鬱そうに歩いてくるのを見つけた。
今年15才になる、同い年のいとこ、トマス・カルペパーだった。
向こうはまだこっちに気が付いていない。
母が亡くなるまで、トマスはよくこの屋敷に遊びに来て、2人で庭を走り回っていた。
あれから3年たった。
少年は幼い顔の上に端正な大人の顔立ちが花開きかけていた。
声をかけようとしたキャサリンは、思わず見とれてしまった。
視線に気が付いたトマスもまた、キャサリンに同じ感覚を抱いたらしかった。
感動した目で、いとこを見つめた。
「暖かくなったね」
トマスがびっくりしたように言う。
「だってもう6月なんだから、当たり前じゃない」
キャサリンも大げさに笑った。
向き合ったまま、2人は顔をそらしたり笑ったり、落ち着かない5分が過ぎた。
「君がここにいるなんて、知らなかった…」
「別に教えたわけじゃないし、知らなくても当然よ」
「誰かが教えてくれればいいのに…」
「誰も私の居場所なんて気にしてないから」