キャサリン・オブ・アラゴン/1525年/ルーカス・ホルネボルト作/ナショナル・ポートレート・ギャラ リー所蔵
キャサリンは1485年12月15日、マドリードのアルカーラ・デ・ヘナレ ス宮殿で誕生した。父はアラゴン王フェルナンド2世、母はカスティーリア女王イザベラ1世。「カトリック両王」といわれるこの夫妻の間の、末娘であった。
1488年わずか3歳で、時の英国皇太子アーサーと婚約していた。
1501年10月2日、キャサリンは16歳で、初めて夫となる人の国/プリマス港の土を踏んだ。それから一月後の11月14日、アーサーとキャサリンはセ ントポール大聖堂において、華やかに挙式を挙げた。しかしアーサーが病弱であったために、肉体関係を結ぶことなく、半年後の1502年4月20日、滞在先 のウェールズにおいて、アーサーは亡くなってしまった。
結婚が形式上だった事や、持参金が半分不払いだったこともあり、英国とスペイン間の話し合いはこじれた。持参金を手放したくないために、ヘンリー7世は2年後次男のヘンリー(8世)とキャサリンを形だけ婚約させ たが、実行するつもりはなかった。
しかしキャサリンを愛していたヘンリー8世は、1509年父王が没した一月後の6月3日、立ち会い人1人のもとにグリニッジ宮殿の礼拝堂でひっそりと結婚 し、8日後、ウェストミンスター大聖堂で盛大な戴冠式を挙げたのだった。
当時の年代記録では、その時の模様をこう伝えている。
「翌日日曜日は、聖ヨハネの祝祭日だった。高貴なる王子は時間通りウェストミンスターにむかって宮殿を出発した。シンクポート男爵が天蓋を支える中、ロイヤルカップルは大聖堂に入った。内部では、神聖なる伝統、古代からの習慣によって貴族達や高位聖職者らの見守る中、カンタベリー主教の手によって、優美に油を注ぐ儀式が行われた。詰めかけた人々は大声で2人を祝福した。」(チューダー朝/宮中年代編纂者/エドワード・ホール著1509年)
しかしこうした華やかさと裏腹に、キャサリンは習慣性の流産に苦しめられていた。
1511年、やっと出産するも王子は一月後には逝去、その2年後に生まれた王子もまた生まれてすぐに亡くなった。
妊娠、流産を繰り返した後の1516年2 月18日、ようやく健康な王女メアリーを授かった。
そうした悲しみの中でも、キャサリンはよく夫を支え、ヘンリーがフランスに遠征中の1513年9月、スコットランドからの侵略を食い止めた。キャサリンの 派遣した英国軍は、9月9日のフロッドンの会戦においてスコットランド軍に圧勝し、敵王ジェームス4世を討ち取るという快挙を果たした。
が、国際的状況はキャサリンにとって不利に動いていた。スペインとの同盟は破棄され、今まで敵国であったフランスと英国の間で講和が結ばれた。
その頃ヘンリー8世は愛人アン・ブーリンとの結婚を望んだため に、キャサリンが王子を産まなかったことを理由に離婚を言い出した。
キャサリンが以前、兄のアーサーと名目だけの結婚をしていた事を根拠に、聖書の禁忌に触れるとして、1527年、法王に結婚解消を願い出たのであった。
しかし時の法王クレメンス7世は、2人の結婚が法王の許可をえて行われたもの、だとして離婚の許可を出さなかった。また、法王に対して強い発言権を持つ神 聖ローマ帝国皇帝カール5世もまた、キャサリンの甥として、反対した
キャサ リン・オブ・アラゴン/1530年作者不詳/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
1533年 5月23日カンタベリー主教クランマーによって、キャサリンと
ヘンリー8世の結婚は無効であった、と宣言され、翌年の11月、正式にキャサリンの王妃の称 号が剥奪された。それ以降、公式には「アーサー皇太子未亡人」と呼ばれる事になる。
キャサリン は、アンが日の出の勢いで王妃への道を邁進している頃、宮中から追放され、アントヒルに監禁された。
その後1534年5月、キムボルトン城へと移送された。
その年、愛人アン・ブーリンは国民の反対を押し切って王妃になっていた。
アンの策謀により、一人娘メアリーを奪われ、アンの生んだ第2王女エリザベスの王位継承を認めるよう迫られたが、命をかけて拒否した。
そして1536年1月7日、最期まで側にいた侍女マリア・デ・サリナスの腕の中で、息を引き取った。
死因は癌、心臓病、あるいはアンとヘンリー8世による 毒殺なのか、はっきりしない。
アン・ブーリンに好感を持つ歴史家は必死でキャサリンが病死であった、と主張しているが、その一方、アン・ブーリンがキャサリンを「毒殺したい」と日頃か ら口にしていたのも事実であった。
もしアン・ブーリンが王子を産んでいたら、キャサリンとメアリー母娘は、反逆罪の濡れ衣を着せられ、処刑されていた事は 間違いないだろう。
幸か不幸か、アンが最初に生んだのは娘エリザベス(後のエリザベス1世)だった。
アンはキャサリンの死の知らせを聞いて、侮蔑を示す黄色いドレスに身を包み、ヘンリーと手を取り合って喜びのダンスを踊ったという。
キャサリンは自分が日増しに衰弱していく中、死を予見し、どんな仕打ちを受けても最期まで愛し抜いたヘンリー8世に、遺言ともいえる手紙をしたためた。
「My most dear lord, king and husband,
「私の最も愛するロード、王よ、そして我が夫よ
私にも最期の時がやってまいりました。優しい愛が、あなたへの義務を果たします。このような場合ですから、あなたに対して、あらゆる雑事よりも、あなた自身の身よりも、あなたの魂の安全と健康とを心がけるようお願いするために、わずかな
言葉をあなたの記憶の中に残したいと存じます。あなたは多くの災いとトラブルとを、私に投げかけましたけれど、私は全てを赦し、神もまたあなたをお赦し下さいますよう、信心深くお祈りいたします。
我らの娘であるメアリーのために、良き父であるようお願いいたします。また、侍女たちを代表して、彼女たちのために、多くとは申しませんから、どうぞ結婚資金を用意してあげて下さい。また、一年に渡って無償で私に仕えてきた下僕達にも、給料をお支払い下さいますように。最後に、私の目があなたの姿を一目見たいと何よりも望んでいることを、お誓いします。」
署名 キャサリン王妃(キャサリン最期の手紙1536年1月7日/)
キャサリンの遺体は、キムボルトンから40キロ離れたピーターバラ聖堂に葬られた。
その葬列には、ヘンリー8世に禁じられていたにもかかわらず、一般市民500人が参列し、キャサリンへの敬意と哀悼を捧げたという。
今その墓標には、誇り高く「英国王妃キャサリン」と掲げられている。
生前キャサリンを足蹴同然にしながらも、最後は反逆者として抹殺され、まともな墓すら持てなかったアン・ブーリンとは、あまりにも対照 的であった。
ピーターバラ聖堂のキャサリンの墓所 Lara E. Eakins撮影
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors Petra Verhelst
薔薇の冠 石井美樹子著 朝日新聞社
英国王妃物語 森 護 三省堂選書